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天の御国の中で一番偉いのはだれなのか

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78. 天の御国の中で一番偉いのはだれなのか

【聖書箇所】マタイの福音書18章1~5節

ベレーシート

●今回からマタイの福音書18章を学んでいきます。この18章は、マタイの福音書全体にサンドイッチのように挟まれている五つの説教、その中の第四番目の「説教」が収められています。そのテーマは、「天の御国の共同体における関係」についての教えです。18章では「天の御国の共同体」を「教会」(17節)としているので、「教会における人間関係」ということも言えます。これは、イェシュアが語られたものをマタイが編集したものですが、弟子たちの質問をイェシュアが答えるという記述方法で、一連の教えがまとめられています。今回の箇所として取り上げる1~5節は、18章の教え全体の前提となる事柄が扱われています。その部分のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書18章1~5節
1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。

●1~5節までを観察すると、そこには三つのことが記されていることが分かります。第一は弟子たちがイェシュアに質問します(1節)。第二はその質問に対してイェシュアが答えます(2~4節)。そして、第三はイェシュアが弟子たちを戒める(5節)という流れです。その戒めがそのあとにも続いているのです(6~35節)。その流れをひとつひとつ追いながら、第四説教の前提となる事柄に耳を傾けたいと思います。

1. 弟子たちの質問

●弟子たちの質問は、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのか」ということです。弟子たちは天の御国を人間社会の価値観で思い描いていたようです。12人の弟子たちの中で、3人の者が選ばれて山に連れて行かれたり、イェシュアが神殿税をペテロの分まで肩代わりしているのを他の弟子たちが目の当たりにしたりということがあったため、弟子たちの間の序列や優劣がどうなっているのか、気になるのも致し方ありません。しかしながら、彼ら同士がいくら論じ合っても解決は着きません。そこで彼らはイェシュアのもとに来て尋ねたのです。

●マタイでは、第二の受難告知(17:22~23)の後に弟子たちの優先順位の話(18:1)があったように記されています。また第三の受難告知(20:18~19)の後にも同じ問題が出てきます。後者の場合は、弟子たちではなく、弟子たちの母親(ゼベダイの子たち、すなわちヤコブとヨハネの母)がイェシュアのもとに来て、自分の息子たちが御国において、「一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい」と頼み込んでいます。「おことばを下さい」とは「約束して下さい」ということですが、これを聞いた他の10人の弟子たちは、「この二人の兄弟に腹を立てた」とあります。いずれにしても、弟子たちにとっては、イェシュアの受難よりも、御国における地位の優劣に大きな関心があったことを裏付けています。母親までが登場するほどに、この問題は彼らだけでなく、肉親にとっても関心事だったのです。

●1節に「一番偉い」と訳された「メイゾーン」(μείζων)は、「メガス」(μέγας)の比較級で、「より偉い」という意味です。ちなみに、「メガス」(μέγας)の反対用語である「ミクロス」(μικρός)がマタイ18章6, 10, 14節で使われています。二つの語彙はいずれも、外形、体格、身長の大小や強度の大小にも使われます。しかしここでは人の価値や地位の大小の意味で使われています。多くの聖書が「だれが一番偉いのか」と訳していますが、真意は「だれがより偉いのか」です。

2. イェシュアの答え

●「だれがより偉いのか」という弟子たちの質問に対して、まずイェシュアは「一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて」とあります。ここの「子ども」は「パイディオン」(παιδίον)で12歳以下の子どもを指します。ここでの子どもはイェシュアが語ろうとする視覚教材であって、いわば「たとえ」です。文字通りの「子ども」ではなく、天の御国における霊的な子どもを意味する「たとえ」として用いられています。イェシュアの答えは、4節で「ホ・メイゾーン」(ὁ μείζων)となっています。これは1節の比較級の「メイゾーン」(μείζων)に対して、ここでは冠詞の「ホ」()が付くことで、最上級の「一番偉い」を意味します。しかも、「だれでも」そうなれるとあるので、一番偉いのは特定の「一人」ではないことが分かります。そして「一番偉い」のは、この「子どものように自分を低くする人」だとイェシュアは答えます。その答えには以下のことが含まれています。

(1) 「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」

①「まことに」
●イェシュアは弟子たちの質問に答える前に、「天の御国」に入る資格について述べています。「まことに、あなたがたに言います。」(あるいは「まことに、まことに、あなたに告げます」)というフレーズの「まことに」と訳された語彙は、「アーメン」(Ἀμην)ということばです。これはイェシュアが「天の御国」の真理を述べる際に使われる語彙です。これはイェシュア自身の名前でもあります(黙示録3:14)。つまり、「天の御国」の事柄について知るためには、「アーメンである方」の声を聞いて、「向きを変えて子どものようになる」ことがなければならないことを語っています。

②「向きを変える」
●「向きを変える」とは、ギリシア語で「ステレフォー」(στρέφω)という語彙が使われています(ヘブル語にすると「シューヴ」שׁוּב)。その意味するところは、「神に立ち返る、神に向きを変える、方向転換をする、自分の心を変える、悔い改める」で、3節では受動態で使われています。受動態ということは「そのような者にされる」ことを意味します。つまり、生まれながらの人間にはそのようになることはできないという意味です。「子どものように素直な心になる」という意味ではありません。それは、「神に立ち返って、まさに霊の子どもとして生まれ変わる」という意味です。ですから、生来の自分が培った知恵や知識、経験や功績、資格や評判などは一切役に立たない、無価値に等しいのです。

●イェシュアは、天の御国の事柄を理解するためには、神に向きを変えて、神の価値観へと心を変えられることがなければならないということを言っているのです。人間的な思いや考え、肉の価値観で考えることをやめて、神の思い、神の価値観に心を向け、考え方の方向転換がなされることを意味しています。これが、「向きを変えて子どものようになる」という意味です。

●ヨハネの福音書3章に登場するニコデモという人物(彼はユダヤ人のパリサイ人の一人で、議員でもあった人)が、イェシュアのもとを訪れた話があります。彼は当時の律法の専門家でもあり、社会でも有力な人物でした。その彼に対してイェシュアは「まことに、まことに、あなたに言います。」と言って、神の国の大切な事柄を語り始めます。その内容は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」というものです。「神の国」とは「御国、天の御国」と同義です。それを「見る」ことは、「知る」ことと同義です。つまり、「神の国を見る(=知る)ためには、人は新しく生まれなければならない」ということです。これをマタイでは、「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」と表現されているのです。

●ところが、ニコデモは律法の専門家でありながらイェシュアの言うことが全く理解できません。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」ということばがそのことを如実に示しています。イェシュアのことばをこの世的な事柄として理解しようとしたからです。イェシュアの言うことを正しく理解するためには、御霊によって(上から)生まれることが必要です。「御霊によって生まれる」ことが「新しく生まれる」ということでが、それが起こるためには、「向きを変えて子どものようになる」、あるいは「自分自身を低くする」ということが必要なのです。ただし、これは神の恵みによって引き起こされる(受動的な)奇蹟なのです。

●ニコデモにとって、イェシュアのことばは驚きであったに違いありません。ニコデモは社会的にも地位のある、またトーラーを教えている学識のある人です。そのような人が、「あなたは神に立ち返って、新しく生まれ変わりなさい」と言われているようなものです。プライドのある者には耐えられないことばです。果たして、ニコデモは「新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」というイェシュアのことばを忘れずにいたでしょうか。イェシュアのことばが神の種として彼のうちに芽吹いたでしょうか。イェシュアが十字架によって死なれた後に、彼がアリマタヤのヨセフと共に葬りの準備をしているところを見ると、彼は「子どものように」新しく生まれた者となった可能性があります(ヨハネ19:38~39)。

(2) 「子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」

①「子どものように」
●「子どものように」の「子ども」と訳されたギリシア語は先ほども述べたように、「パイディオン」(παιδίον)です。そのことばは「幼子」とも訳されます。事実、イェシュアも「幼子」となりました。そのイェシュアが弟子たちを幼子にたとえています。それは、彼らが神のしもべとして、天の御国を打ち立てる新しい幼子たちだからです。

【新改訳2017】マタイの福音書11章25~26節
25 ・・イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。


※ただし、25節の「幼子」は「パイディオン」ではなく、「ネーピオス」(νήπιος)が使われています。「ネーピオス」は「乳飲み子」と「幼子」の両方を含めた語彙です。ですから「子ども」の類義語として考えることができます。

●11章25節にある「これらのこと」とは、「天の御国に関すること」であり、「御国を打ち立てること」を意味します。それらのことを「幼子たち」に現されたとあります。つまり、イェシュアの弟子たちに現されたことを意味します。しかもこのことばは詩篇8篇に基づくものです。

【新改訳2017】詩篇8篇1~2節
1 【主】よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。
2 幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために。

●詩篇8篇2節で「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました」とあるのは、預言的なことばであり、字義どおりのことではありません。イェシュアの弟子たちのことを「幼子たち、乳飲み子たち」と表現しているのです。天の御国という霊的な世界においても、出発点は純粋な神のことばを飲む「乳飲み子」、神のことばによる「幼子」なのです。たとえこの世でどんな偉い人であっても、天の御国では新しく生まれた「乳飲み子、幼子」から出発しなければなりません。ですから、子どものようにへりくだらなくてはならないのです。そこから出発して、神のことばによって少しずつ成長して、霊的に成長し、成熟した者となって行くのです。使徒パウロやペテロは共に、クリスチャンがいつまでも「乳飲み子」「幼子」であり続けてはならないことを述べ、「乳を飲む」ことから「堅い食物」を食べることを願っています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙3章1~2節
1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子(「ネーピオス」νήπιος)に対するように語りました。
2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙5章12~13節
12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、が必要になっています。
13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子(「ネーピオス」νήπιος)なのです。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙2章2節
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳(=神のことば)を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

●このようにイェシュアの弟子たちは「乳飲み子」であり、「幼子」なのですが、そこから始まって霊的に成熟して、御国を打ち立てる者となるのです。ですから、「子どものように自分を低くする」ことから始めなければならないのです。

②「自分を低くする」
●「子どものように自分を低くする人」とはいったい誰なのか、それはまさにイェシュア自身のことを意味します。ただし、イェシュアの場合は弟子たちに必要な「向きを変える」ことは一切必要ありませんでしたが、ある意味において、「子どものように自分自身を低くする者」となる模範になられました。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~11節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

●マタイ18章4節の自分自身を「低くする」も、ピリピ書2章8節の「低くする」も同じく「タペイノオー」(ταπεινόω)という動詞です。本来、神であるイェシュアがどこまで低くされたかと言えば、「乳飲み子」から出発し、自分自身を低くし、苦しみの中で従順を学び、十字架の死にまで従われたほどです。しかし、そのことによって、御父である神が彼を高くしてくださったのです。イェシュアが高く上げられて「すべての名にまさる名を与えられた」のは、イェシュア自身が自らを低くして「しもべの姿」をとられたゆえです。御国においては、「神のしもべ」が最高の称号であり、一番偉いのです。弟子たちも「神のしもべ」として、イェシュアのように自分自身を低くする者とならなければなりません。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)とイェシュアは語っています。

●使徒のヤコブもペテロも同様に、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」(ヤコブ 4:10)「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ 5:6 )と語っています。

●このように、「低くする」とは、「へりくだる」ことなのです。語彙も同じく「タペイノオー」(ταπεινόω)です。イェシュアはまさにこのような方であられました。人の目には何も逆らえない惨めな人に見えます。その極みが十字架につけられた恥辱の姿です。そこだけを見るなら惨めな姿でしかありませんが、霊の部分は御父に完全に信頼してお任せになった(=ゆだねた)のです。これこそが謙遜の極みです。この意味において、「子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」というイェシュアのことばを理解する必要があります。

3. 弟子たちに対するイェシュアの戒め

●ここから、5節の「また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」という戒めとなり、マタイの第四の説教である「天の御国(=教会)における共同体のかかわり」についての本格的な内容になっていくのです。教会は「キリストをかしらとするからだ」とも言われますが、からだにおける各肢体同士の関係がテーマとなっています。教会での「つまずき」の問題、「罪を犯した兄弟たちへの対応」の問題、そして「罪の赦し」の問題がその内容となっていきます。

●5節の「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」とは、イェシュアの弟子たちを受け入れることの重要性を語っています。それは「わたしを受け入れるのです」とあります。それはどういうことでしょうか。まず、「受け入れる」という言葉ですが、最初の「わたしの名のゆえに受け入れる」とは、たとえその人がどのような人であったとしても、イェシュアがその人を愛されたという事実に基づいて受け入れるという意味です。ここの「受け入れる」は一回限りのアオリスト(=過去形)です。しかし、後半の「わたしを受け入れるのです」の「受け入れる」は現在形が使われています。つまり、継続的にイェシュアを受け入れ続けていくことであり、それは評価されるべきと見なされることを意味しています。ここに御国の民の共同体のメンバーを見る視点があります。この視点を、使徒パウロは「教会はキリストのからだ」としてたとえています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙12章14~27節
14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています
15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分がともに喜ぶのです。
27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です

●つまり、使徒パウロは、からだ全体を「有機的・統一的・全体的」に捉えているのです。イェシュアの「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」という戒めを、私たちが理解できるように、「からだ」という概念をもって教えてくれているのです。

ベアハリート

●「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」という弟子たちのこの世的な優劣を問う質問に対して、イェシュアは「だれもが一番偉い者となる」という答えを引き出しているのです。つまり、一人ひとりが大切な存在であり、それが「教会」における倫理の土台となっているのです。使徒パウロは教会をキリストのからだとして建て上げることを述べていますが、この「建て上げる」という語彙は建築用語です。「人がひとりでいるのは良くない」とされた神はアダムを深い眠りに落として、彼のあばら骨からひとりの女を造り上げました。この「造り上げる」という動詞がまさに「建て上げる」(組み立てる)という語彙なのです。私たちが「向きを変えて子どもたちのように自分を低くすることによって」、はじめてキリストのからだである教会は建て上がって行き、やがて御国の栄光を打ち立てることができるのです。そのために無駄となるような人はなく、働きの違いがあったとしても、そこに優劣の差はありません。パウロが述べている「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」(Ⅰコリント12:22)ということばに、私たちは「恐れ」を抱く必要があるのではないでしょうか。なぜなら、教会を建て上げることは、神のご計画における最も中核的な事柄だからです。

2020.5.24
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