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安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ

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117. 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ

【聖書箇所】 出エジプト記20章8節

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【読み】
ザーール エツト・ーム ハッシャート レカデショ

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
【口語訳】
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
【新共同訳】
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
【新岩波訳】
安息日覚え、これを聖別しない。
【NKJV】
Remember the Sabbath day, to keep it holy.
【NIV】
Remember the Sabbath day by keeping it holy.
【LIB】
Exo 20:8 安息日を特別の日として守りなさい。

【瞑想】

十戒の第四戒は「安息日」に関するものです。出エジプト記20章の8節のみならず、11節までそのことにふれています。

8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

七日毎に休みを取るという「安息日の制定」は、神が定めた秩序です。現代は週一回の休日は当たり前となっています。しかし昔からそうであったわけではありません。特に、ユダヤ人たちにとっては、この安息日を守ることが、民族としての精神的独立を保つためになくてはならないものでした。割礼がユダヤ人と異邦人とを区別するしるしであったように、安息日の厳守はユダヤ人社会と異邦人社会を隔てるしるしでもあったのです。

今日の異邦人クリスチャンにとって、この第四戒をどのように理解し、それを遵守するかはとても重要です。私は、この第四戒の戒めの定義を「神とくびきを共にして生きるための呼吸を合わせるために、週に一度、神の前に静まって(休息の中で)リセットする日」としたいと思います。

リセット」(reset)とは、本来あるべき状態に戻すことを意味します。神と自分のあるべきかかわりを点検して、あるべき状態に回復すること、呼吸を合わせることです。その調整を七日に一度きちんとすることが命じられているのです。

イスラエルの民がエジプトにおいて奴隷となっていた時、安息の日はありませんでした。しかしそうした奴隷状態から解放された神の民は、神とくびきを共にし、呼吸を合わせて生きるために、第七日目を安息日とすること、すなわち、身分や立場を問わず、すべての者がすべての仕事から解放される必要があったのです。その聖書的根拠は神の創造の秩序の中にて位置づけられています。特に、神がご自身のかたちに似せて人間を創造されて、すべてのものを支配する務めを与えた後に、神が休まれました。そして主はその「安息日」を祝福し、「聖なる日」として特別な日とされたのです。これは神と人とが共に歩むために、他の日とは区別された日、特別な日として区別され、特にこの日を祝福されたことが重要です。

神の律法の中に「牛とろばとを組にして耕してはならない」と戒めがあります(申命記22:10)。なぜなら、牛とろばとでは、歩く歩幅もテンポも異なります。呼吸の幅も異なります。呼吸が合わなければ共に歩むことはできなくなるからです。これは牛とろばだけでなく、あらゆるかかわりにおいて言えることです。特に、人間は、神である主から、その鼻からいのちの息を吹き込まれて生きる特別な存在とされました。それは神と人が共に歩むためです。神を信頼し、神と呼吸を合わせることができる存在して造られたのです。

ちなみに、「安息日」と訳されたヘブル語の「シャバーット」(שַׁבָּת)は、出エジプト記16章にはじめて登場します。この章はエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野において、食物としてのパン(マナ)を与えられた出来事をしるしている箇所です。その箇所にはこうあります。

【新改訳改訂第3版】
16:22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、
16:23 モーセは彼らに言った。「【主】の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、【主】の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」
16:24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。
16:25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは【主】の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
16:26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」

ここには「安息の七日目」を特別な目的のために聖別するために、その前日に安息の日のための分が与えられるということです。マナは翌日まで置いておくと虫がわいて、悪臭を放って食べられなくなりましたが、六日目の分だけでは翌日まで取っておいても腐ることはありませんでした。

この話の重要な点は、人間の基本的ニーズである生存の保障を神が与えてくださるということです。ですから、思い煩うことなく、安息日を特別な目的の日とすることができることを神は保障しているのです。イエスがのちに「神の国(支配)とその義(かかわり)をまず第一に求め続けなさい」と言われたように、神と呼吸を合わせるリセットの日である「安息日」を設けてくださったのです。それほどに、「安息日」は神と人とのかかわりにおいて大切な日なのです。主にある者がそれぞれ自覚的に過ごす必要があるのです。

最後に、御父と共にくびきを負って歩まれた御子イエスが次のように語っています。マタイの福音書11章28節~30節

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

「安息日は人間のために設けられたのです。」(マルコ2:27)


2013.7.8


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