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宮の中で(神殿の境内で)

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91. 宮の中で(神殿の境内で)

【聖書箇所】マタイの福音書21章12~17節

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●今回のマタイの福音書21章12~17節には、イェシュアがエルサレムに入場したあとの、宮の中での言動が記されています。その三つの言動にすべて「宮の中で」があります。「宮」とは「神殿」(「ヒエロン」ἱερόν)のことですが、実際はその境内で起こった出来事です。ですから、聖書協会共同訳では「神殿の境内で」と訳しています。ちなみに、ヘブル語では「バッミクダーシュ」(בַּמִּקְדָשׁ)です。

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【新改訳2017】マタイの福音書21章12~17節
12 それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
14 また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
15 ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
16 イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
17 イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。


1. 神の宮を「強盗の巣」とした商人たちと両替人たちを追い出す

●12節に「それから」とあるので、イェシュアの宮きよめが、エルサレムに入場された後ただちに行われたと私たちは考えます。ところが、並行記事であるマルコ11章11~13節、および15節を見ると、エルサレム入場の翌日であったことが分かるのです。

【新改訳2017】マルコの福音書11章11~13, 15節
11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、・・・・
15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

●日付だけでなく、話の順序、すなわち、「いちじくの木」の話と「宮きよめ」の話が逆になっているのに気づきます。その理由として考えられるのは、起こった出来事の時系列が重要なのではなく、出来事そのものが重要だということです。今回の「宮きよめ」の話と次回に扱う「いちじくの木が枯れること」の話には深いつながりがあります。この二つはワンセットの出来事なのです。というのも、この二つの出来事は、「神の訪れの時を知らなかった」当時のエルサレムの現実をよく表しているからです。しかし今回はそのことに触れないでおこうと思います。

●むしろ、イェシュアが宮に入り、その中で売り買いしていた者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されたことに注目したいと思います。「宮きよめ」の出来事は、ヨハネの福音書(2:13~17)にも記されているため、宮きよめの出来事はイェシュアの公生涯において二度あったと考える人がいます。その一度目はイェシュアの宣教の初期で、二度目はイェシュアの宣教の最後の週です。しかし、宮きよめは一度であったと解釈する人もいます。その箇所を比較してみたいと思います。

【新改訳2017】ヨハネの福音書2章14~16節
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」 ・・・

【新改訳2017】マタイの福音書21章12~13節
12 それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」

●確かに細かなところは違っています。しかしヨハネの福音書の場合は共観福音書の時系列とは異なる内容と配列になっているため、私はイェシュアの宮きよめの出来事は一度だと考えています。いずれにしても、「宮きよめ」はきわめて辛辣な言動です。いずれも、イェシュアは商売人たちと両替人たち、そして羊も牛も、宮から追い出しています。異なる点は、ヨハネの方は「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」とあるのに対し、マタイの方は「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている」としている点です。宮を「わたしの父の家」、あるいは「わたしの家」と言っていることは重要です。宮(神殿)をきよめようとするイェシュアの行為に対して、宮を神聖視しているユダヤ当局がそれを黙って見過ごすことはありません。エルサレムに入ったイェシュアの言動の一つ一つが、ユダヤ当局との激しい戦いを意味しているのです。それは神とサタンとの激しい戦いが始まったことを示しています。

●イェシュアは商売人と両替人たちに対して、宮を「強盗の巣にしている」と言いました。彼らは当時の祭司長、祭司たちと親戚関係にあったことから、イェシュアの彼らに対する言動は、むしろ祭司長や祭司たちに対する批判をしたことになります。

●「強盗」(原文は複数)のギリシア語は「レーストーン」(λῃστῶν)、ヘブル語は「ペリーツィーム」(פָּרִיצִים)。単数の「パーリーツ」(פָּרִיץ)は「無法な者」とも訳されます。エゼキエル書7章22節には、「わたしは彼らから顔を背け、わたしが秘宝とする所は汚される。無法者がそこに入り込み、そこを侵す。」(新改訳2017)とあります。「わたしが秘宝とする所」とはエルサレム神殿のことで、エゼキエル書では「無法者(バビロンの兵士たち)によって神殿は汚されること」、つまりバビロンの捕囚時に、神殿の宝物が略奪されることを意味しています。それと同じ運命にあることをイェシュアは知って、このことばを使ったのです。

●「巣」は「メアーラー」(מְעָרָה)で、まさにエルサレムの神殿は、祭司集団の利得をむさぼる「巣窟」となっていたのです。しかし、神のご計画においてはやがてそこは「祈りの家と呼ばれる」ようになると預言されています。それはどういうことでしょうか。クリスチャンにとって「祈りの家」という語彙は、預言のことばとして注目されることが少ないのですが、旧約で「祈りの家」ということばはたった1回しかなく、特別な預言のことばなのです。イェシュアはそのことばを用いてここで語っているのです。

●「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」、ここでの「祈りの家」とは教会のことではありません。これは「メシア王国における神殿」のことなのです。神と人とがともに住む神殿は、メシア王国においては「祈りの家」と呼ばれるのです。その「祈りの家」のことを、イェシュアは「わたしの父の家」、「わたしの家」と言っているのです。ということは、強盗の巣になってしまったエルサレムの神殿は、バビロン捕囚の時と同様、崩れ去る(崩壊する)ことを意味しているのです。それゆえ、エルサレムに起こる運命を知っていたイェシュアはエルサレムに近づいた時、すでに「この都のために泣」かれたのです(ルカ19:41)。イェシュアがどのような意味で「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と言われたのかを知るために、そのことが預言されているイザヤ書56章を見てみましょう。

【新改訳2017】イザヤ書56章1~8節
1 【主】はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」
2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。
3 【主】に連なる異国の民は言ってはならない。「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
4 なぜなら、【主】がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
6 また、【主】に連なって主に仕え、【主】の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ
8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、【神】である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」


●イェシュアが語られたマタイ21章13節の「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある」ということばは、イザヤ書56章7節のことばです。イェシュアの中はこのみことばが意味しているコンテキストを知って語っているのです。それゆえ、私たちがイェシュアの引用することばを理解するためには、そのことばを含んでいるコンテキストを理解する必要があります。

●このイザヤ書56章1~8節の預言は、メシア王国における異邦人たちに対するものです。教会に属するクリスチャンたちのためのものではありません。これは、教会が携挙されたのちに救われる異邦人(諸国民、異国の民、疎外された宦官)に対する預言であり、この者たちを「わたしの聖なる山」、すなわち、エルサレムに連れて来て、「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」という預言です。「すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える」とあるように、イスラエルの残りの者たちだけでなく、【主】に連なって主に仕え、【主】の名を愛して、そのしもべとなった異国の民も救いに加えられて、「わたしの家で彼らを楽しませる」、しかも「(わたしの)息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える」という祝福、それが神のご計画なのです。まさに、アブラハムに与えられた約束「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」ということが十全に実現されるのです。

●にもかかわらず、当時の祭司たちはその神のご計画を無視し、それから外れて、「あなたがたはそれを強盗の巣にした」と糾弾されているのです。つまり、宮の境内で商売や両替をして暴利を貪り、神にささげるべきものによって私腹を肥やしていたのです。それは、まさに神のものを盗むことに等しいことでした。そうした背景にはそれを許しているユダヤ教の支配体制がありました。制度化された支配体制のもとで胡坐(あぐら)をかき、「祈りの家」を「強盗の巣」にした者たちー祭司長、祭司たちーは、宗教を食い物にしていたのです。商売人も両替人もすべて祭司階級の者たちと結びついていた者たちなのです。当時の祭司たちの支配体制は、今日で言うところの一党独裁的支配だったのです。パリサイ派の律法学者たちとサドカイ派の祭司たちとは、律法についてのその立場や考え方は異なっていましたが、自分たちの利権においては、暗に認め合っていたのです。ですから、エルサレムを訪れたイェシュアに対して、双方が協力して真っ向から対決することができたのです。彼らは単にイェシュアに「腹を立てた」だけでなく、宮きよめの出来事を契機にして、イェシュアをいかにして殺そうかと本格的に相談しはじめたのです。

2. 目の見えない人たちと足の不自由な人たちの癒やし

【新改訳2017】マタイの福音書21章14節
また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。

●イェシュアの公生涯三年半のガリラヤ伝道において、イェシュアは自分のもとに来た多くの病人たちを癒やしましたが、それは御国の到来のデモンストレーションでした。そのことをエルサレムでも証しする必要がありました。14節がそのことについて記しています。一見、癒やしの数は少ないように思えますが、「目の見えない人たち」「足の不自由な人たち」とは複数形です。ここでの癒やしが、イェシュアがメシアであることを証しする癒やしとなっています。メシアが支配する王国では、「目の見えない人たち」も「足の不自由な人たち」も存在しません。なぜなら、彼らは御霊のからだに変えられるからです。イザヤ書35章にはそのことが預言されています。

【新改訳2017】イザヤ書35章5~6節
5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。

●「そのとき」とは「終わりの日」、つまりメシアが地を支配する千年王国の時です。また、「水」は聖霊を示唆しています。メシア王国の特徴は爆発的な喜びです。「目の見えない者」「耳の聞こえない者」「足の萎えた者」「口のきけない者」はすべて複数形です。これらは基本的にイスラエルの民とその霊的状態を意味しているのです。したがって、マタイ21章14節の「目の見えない人たちや足の不自由な人たち」に対する癒やしは、イスラエルの民たちを示唆する預言的な行為だと言えます。

3. 祭司長たちと律法学者たちに対して語られた「詩篇8篇」のことば

【新改訳2017】マタイの福音書21章15~16節
15 ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
16 イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

●今回、「宮の中で」起こった第三の出来事は、祭司長たちや律法学者たちが「腹を立てた」ことです。「腹を立てた」理由は二つあります。一つはイェシュアがなさったいろいろな驚くべきことを見たことと、子どもたちが「ダビデの子にホサナ」(=「ダビデの子よ、どうぞ救ってください」の意)と叫んでいるのを見たからです。この「腹を立てる」ということばは「アガナクテオー」(ἀγανακτέω)で「激昂する、憤慨する、非常に不愉快になる」という意味です。ヘブル語では「ハーラー」(חָרָה)ということばで、カインが自分のささげものに、神が目が留めてくれなかったことで「激しく怒った」箇所(初出)です。初めて殺人が起こった背景にあったのがこの怒りです。どうして彼らが激しく怒ったのでしょうか。しかも、彼らがイェシュアに「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」と言ったのはなぜでしょうか。それは、この賛美のことばが神に対してのみささげられるものであり、それがイェシュアに対して向けられていること、しかもイェシュアがそのことを黙認しており、それは自分を神の位置に置いているに等しい、と彼らは腹を立てたのです。

●彼らの「聞いていますか」の問いに、イェシュアは「聞いています」と答えられただけでなく、詩篇8篇の中の一節である「幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは御力を打ち立てられました」を引用して、あなたがたはこれを読んだことがないのですかと逆に尋ねています。一節が引用されていますが、この一節だけが大切なのではなく、この節が含まれている詩篇を指して言っているのです。その詩篇8篇とはメシア詩篇なのです。詩篇8篇には二つの特異なフレーズがあります。一つは2節の「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。」というフレーズ。もう一つは5節の「あなたは 人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。」というフレーズです。

(1)「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち建てられました」

●「幼子たち 乳飲み子たち」とは、イェシュアの弟子たちのことを預言的に表現した比喩的表現です。イェシュアがこの世に来られた時、多くの奇蹟を通して自分がメシアであることを示そうとしました。ところが、ガリラヤに住む多くの人々はその奇蹟を見ても信じようとはしませんでした。そこでイェシュアは祈りの中でこう言いました。

【新改訳2017】マタイの福音書11章25~27節
25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。

●25節の「これらのこと」とは、数々の奇蹟や数々のことばを通して現わされた「御国の福音」のことです。この福音は「知恵ある者や賢い者には隠して」とあるように、だれでも理解できるものではなく、選ばれた者以外には分からないのです。その選ばれた者とはイェシュアの弟子たちのことを意味しますが、イェシュアは彼らのことを「幼子たち」と言ったのです。マタイ21章では「子どもたち」ですが、その子どもたちが、メシアがだれであるかを悟って、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたのです。

(2) 「あなたは 人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし・・てくださいました」 

●「人」(原文では「彼」)のことを「御使いよりわずかに欠けがあるもの」と表現しています。「わずかに」と訳されたことばは「少し」という意味と、「わずかの間」という意味があります。ここでは後者の意味で理解すると分かりやすいです。というのは、詩篇8篇5節がヘブル人への手紙2章7節に引用されており、そこでは「わずかの間」と訳されているからです。「人」、すなわちメシアなるイェシュアは地上においてわずかの間、御使いと比べるならば「不足した、限定された存在」でした。とはいえ、充分に天の父を啓示されたのです。肉体をもっていたことが、ある意味で「限定されていた」という意味です。にもかかわらず、復活と昇天、そして再臨される時には、「あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足(原文では「両足」)の下に置かれる」存在となります。つまり、詩篇8篇5節はイェシュアの初臨の時を表し、6節はイェシュアの再臨の時を表しているのです。

●神のご計画は、人を通して地を支配することです。この詩篇の作者であるダビデは、神の本来のご計画と目的がこの地において実現した光景を、啓示によって知り、「【主】よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。」(1, 9節)と感嘆の声を上げているのです。それは人によって「地を支配する」ことが成就していることを信仰の眼で見たからです。しかし地において実際には、「あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました」ということばはいまだ実現していません。しかし将来、神の似姿に造られた人が、全地である「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配する」ようになるのです、神は人に「地を治める」(創世記1:26)ことを必ず実現させます。そのために、最初のアダムの失敗を踏み直す人(メシア)が必要なのです。それゆえ、宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」(=「ダビデの子よ、どうぞ救ってください」の意)と叫んでいるのは、的を射たことであり、しかも預言的な行為であったのです。

ベアハリート

●今回は、「宮の中で」と記されたイェシュアの三つの言動について学んできました。「地の現実」とやがて神によって実現される「天の現実」が織りなすようにして、イェシュアのエルサレムでの最後の一週間が始まって行きます。神とサタンとの激しい戦いがここに圧縮されているのです。

2020.12.13
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