****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

小さい者たちの一人の価値 (1)

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79. 小さい者たちの一人の価値 (1)

【聖書箇所】マタイの福音書18章5~7節

ベレーシート

●前回からマタイの福音書18章を学んでいます。この18章は、マタイの福音書全体にサンドイッチのように挟まれている五つの説教の中の第四番目の「説教」が収められており、そのテーマは、「天の御国の共同体における関係」についての教えです。18章では「天の御国の共同体」を「教会」(17節)としているので、「教会における人間関係」(教会における倫理的教え)ということも言えます。聖書において、倫理的な教えは、あくまでも神がなされた出来事(特にイェシュアの事実)が土台となっています。ですから、いつもその事実を念頭に置いて考える必要があります。新約聖書における手紙の構造はまさにその典型と言えます。また、そうした考え方こそへブル的視点とも言えるのです。

●前回は1~5節までを取り上げましたが、今回は5節を再度取り上げて、7節までとしたいと思います。前後関係の流れを考えると、5節の「受け入れる」と、6~9節にある「つまずかせる」とは反意的パラレリズムとなっています。いずれも、御国の民(=小さい者たち)の一人ひとりの存在の価値が訴えられているのです。そのことを確認するためにも、5節から始めたいと思います。今日のテキストはわずか3節分ですが、このテキストを読んでどんなイメージを抱くでしょうか。

【新改訳2017】マタイの福音書18章5~7節
5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。


1. 「わたしの名のゆえに受け入れる」

(1)「わたしの名のゆえに」

●「わたしの名のゆえに」ということを考えてみましょう。私たちクリスチャンは祈りの最後に「イエス様のお名前によって」と付け加えます。このことばは祈りを閉じるサインのことばではありません。この名が意味することをそれほど考えずに、慣例として使っているかもしれません。祈りの内容も自分本位なものであるなら、最後の「イエス様のお名前によって」も自分本位に使っているかもしれません。

●ところで、「わたしの名のゆえに」という表現はイェシュア自身のことばですから、福音書にしか出てきません。ところがこのことばが各福音書に使われているのはそれぞれ一回のみです。マタイに限って言えば、この箇所(18:5)だけということになります。ですから、このことを取り上げる意味が十分にあります。

●聖書において「名」(名前)というのは、ある存在を識別するためのものではありません。むしろ、その存在の本質、性質のすべて(その使命も含めて)を表わします。ヘブル語での「名」(「シェーム」שֵׁם)はその人自身に与えられた神の「息」(「ネシャーマー」נְשָׁמָה)そのものなのです(創世記2:7)。したがって、ヘブル語の名は必ず意味をもっているのです。

●「わたしの名のゆえに」(「ビシュミー」בִּשְׁמִי)の「わたしの名」とは「イェシュア」のことです。主の使いがヨセフの夢の中に現れて、マリアから生まれる男の子の名を「イェシュア」と名付けなさいと告げます。その名の意味を「ご自分の民(イスラエル、御国の民)をその罪からお救いになるのです」(マタイ1:21)と語っています。さらに、「その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)ともあります。マタイは「インマヌエル」という名前の意味を読者が理解できるように、「神が私たちとともにおられる」という意味であることを記しています。つまり、イェシュア自身が神の性質と人の性質をもった存在であり、この方こそ神の民を罪から救い出して、その民に与えられた本来の権利を回復させるだけでなく、その民に与えられた約束を実現させ、神と人とがともにあるという神の究極である「エハード」(אֶחָד)を実現させる方であることを、この二つの名が表しているのです。

●使徒パウロは「イェシュアの名」という名が、「すべての名にまさる名」として復活後に御父から与えられた名であることをピリピ書で述べています。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~11節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

●「イェシュアの名」がなぜ「すべての名にまさる名」なのか、その理由が記されています。ほかの使徒たちも「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」と宣言しています。それほどに「イェシュアの名」という名は偉大なのです。したがって、マタイに記された「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる」ことは重要なことなのです。ここでの「子ども」とは、イェシュアを信じた者のことです。18章10節の「小さい者たち」も同様です。

(2) 「受け入れる者は、わたしを受け入れる」

幕屋の幕(1).PNG

●「受け入れる」はギリシア語の「デコマイ」(δέχομαι)ですが、ヘブル語にすると「カーヴァル」(קָבַל)です。その初出箇所は出エジプト記26章で、幕屋の幕を造るときに使われています。神の住まいである聖所の造りには、神のご計画におけるキリストがこと細かくあかしされています。

幕屋の幕.PNG

【新改訳2017】出エジプト記 26章5~6節
5その一枚の幕に五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の端にも五十個の輪を付け、その輪を互いに向かい合わせにする
6 金の留め金五十個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする

●「向かい合わせにする」と訳されている部分が「受け入れる」という意味の「カーヴァル」(קָבַל)です。ここにある二つの幕には「ユダヤ人と異邦人からなる教会」の奥義が示唆されていますが、この二つの幕を一つにつなぎ合わせている「金の留め金」こそイェシュア自身なのです。そうして造られる幕が「ミシュカーン」(מִשְׁכָּן)、すなわち、「神の御住まい」となるのです。50個の輪の数は「五旬節」を意味しているだけでなく、50年に一度の完全な回復を意味する「ヨベルの年」を意味し、神の創造における本来の回復(エデンの園)を意味しています。したがって、「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」とは、イェシュアを通して実現される神のご計画における回復を受け入れることを示唆しているのです。

●それゆえ、キリストにあって御国の民の一人をつまずかせることは、神のご計画を妨げることに等しい罪です。マタイの福音書18章における「つまずき」は、神のご計画の全体的な視点から語られていることなのです。その土台となっているのが、「わたしの名によって」ということばです。主にある私たちの務めは、神がなそうとしているご計画を知って、それに献身的に参与すること、これこそが、主なる神を愛することであり、そこから倫理的な命令(要請、奨励)が生じてくるのです。なぜ「受け入れる」のか、なぜ「つまずきをもたらしてはならない」のか、その要求の熱意と必然性が、神の永遠のご計画とみこころ、その御旨と目的に基づいているからなのです。

2. 小さい者をつまずかせる者の罪は重い

●テキストを読んでどんなイメージを受けるかを尋ねましたが、おそらく「つまずき」ということばに対してどんなイメージを持っているかで変わってくると思います。6~9節には「つまずく」(「スカンダリゾー」σκανδαλίζω)という動詞と「つまずき」(「スカンダロン」σκάνδαλον)という名詞が多く登場します。今日のマスコミでいう「スキャンダル」(scandal)の語源となっている語彙です。動詞の「つまずく」(σκανδαλίζω)は新約聖書全体で29回ですが、マタイの福音書では14回、そのうち18章6, 8, 9節で3回。名詞の「つまずき」(σκάνδαλον)は新約全体で15回、マタイでは5回、そのうち18章7節で3回の使用頻度となっています。ですから、18章6~9節の中には「つまずき」「つまずく」がそれぞれ3回ずつ出てきます。この「つまずき」は罪で、「つまずきを与える」ことは「罪を犯す、罪を犯させる」ことなのです。自分が他人に「つまずき」を与えたことがないと思っている人はおそらくいないのではないかと思います。その内容はピンからキリまであると思います。人に何かしらのつまずきを与えたことで、良心に痛みを覚えておられる方はいないでしょうか。しかし安心してください。ここで言われている「つまずき」とは、小さな石でつまずいてよろけるといった軽いものではなく、異端的な教えや背教に導いて、信仰から離れさせるといった深刻な事態を意味しています。そうした意味において、「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです」と言われているほどに、「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者」の罪は重いということです。

●ところで、「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです」とはどういうことでしょうか。「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる」という表現は衝撃的です。何もこのような大袈裟な表現をしなくてもと考えてしまいます。イェシュアの語ることばは「霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)。イェシュアの語ることばは、私たちの知性や常識で理解しようとするならば、その意味が分からないものなのです。それでは、この「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる」とはどういう意味なのでしょうか。しかもそのほうが「よい」と言われるとますます頭が混乱してきます。ただ、この表現が意味するのは、永遠の刑罰(ゲヘナに投げ入れられる)のことではないということです。なぜなら、それ以上の刑罰はないからです。不思議なのは、「つまずかせる」結果と「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる」ことを比較して、後者の方が「よい」としていることです。このことを理解する一つの話があります。それは、Ⅱ列王記6章に記されている預言者エリシャの奇蹟です。その奇蹟の話を見てみましょう。

【新改訳2017】Ⅱ列王記6章1~7節
1 預言者の仲間たちがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたと一緒に住んでいるこの場所は狭くなりましたので、
2 ヨルダン川に行きましょう。そこから各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに私たちの住む場所を作り
ましょう」と言うと、エリシャは「行きなさい」と言った。
3 すると一人が、「どうか、ぜひ、しもべたちと一緒に来てください」と言ったので、エリシャは「では、私も行こう」と言って、
4 彼らと一緒に出かけた。彼らはヨルダン川に着くと、木を切り倒した。
5 一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」
6 神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。
7 彼が「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。

●これは、預言者の仲間たちが「自分たちの住む場所」(=預言者学校)を作ろうとした話です。預言者の仲間の一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまいました。そのとき、エリシャは「一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた」という奇蹟です。何を落としたのかといえば、「斧の頭」です。「斧の頭」と訳されていますが、新共同訳は「鉄の斧」(原文は「その鉄הַבַּרְזֶל)と訳しています。自然科学の法則で考えるならばこの話は到底理解できませんが、しかし聖書における預言者たちの数々の奇蹟は、「霊のことば、いのちのことばである」イェシュアの型です。その視点で読むならば、このエリシャの奇蹟も理解できるのです。エリシャが提示した「木」とは「エーツ」(עֵץ)で、それは「神のことば」、すなわち、「キリスト」を表わしています。そして、それを「投げ入れる」とは「シャーラハ」(שָׁלַח)で「遣わす」という意味です。つまり、神のことばであるキリスト(メシア)が遣わされることによって、その斧の頭が「浮かび上がった」(「ツーフ」צוּף)、つまり、「救われる」という話なのです。この奇蹟が起こった場所は「ヨルダン川」です。「ヨルダン」は「(天から)降りる、下る」を意味する「ヤーラド」(יָרַד)の派生語で、これも「イェシュア」のことを指し示しています。その場所で「各自一本ずつ梁にする木を切り出して」、本来の目的である「私たちの住む場所」(=教会)を作ることができるというのが、この奇蹟が意味していることだとするならば、イェシュアが「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよい」と言われたのは、人はだれでも失敗をし、それゆえになんらかの制裁を受け、そのことによって、このたとえが示すような目に遭うことがあるかもしれない、しかしキリスト(イェシュア)に救われる可能性がある、その意味では「よい」と言っているのであって、先に述べたように、深刻な意味で「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者」の責任は実に重いということなのです。

●ちなみに、「大きな石臼」とは原文で「ミューロス・オニコス」(μύλος ὀνικος)とあり、それは人の手で動かす小さな石臼ではなく、それは「ろば用の石臼」を意味し、それを「大きな石臼」と訳しています。二つの大きな石の円盤を重ねた臼の上の石の真ん中に首が入るほどの穴があって、そこからすりつぶす物を入れ、回転させて粉にします。もしこの大きな石臼の穴に首を入れて海の深みに沈められたならば、二度と浮かび上がることはできません。しかし、エリシャの奇蹟に登場した「鉄の斧」と同様、イェシュアならばそれを浮かび上がらせることができるのです。

●「海の深みに沈められる」の「沈められる」と訳された「カタポンティゾー」(καταποντίζω)受動態は、他にはマタイ14章30節のみに使われています。ペテロがイェシュアの方に向かって湖の上を歩いていたときに、「強風を見て怖くなり、沈みかけた」という箇所です。ペテロは叫び声を出して助けを求めたとき、イェシュアは彼の手をつかんで助け出し(救い出し)ています。

3. つまずきを与える「この世」と「人」はわざわい

7 節「つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」

(1) つまずきを与える「この世」

●7節に「つまずきを与えるこの世はわざわいです」とあります。「この世」と訳された「ホ・コスモス」は、サタンの支配領域を意味します。この世の神はサタンであり、悪巧みによって人を支配しようとしています。福音に覆いを掛けて、人々の思いをくらませているのもこのサタンの仕業です。御国の民もこの世にいる限り、サタンの影響を受けないわけにはいかないのです。つまずきが起こるのは避けられないのですから、「わざわい」(「ウーアイ」οὐαί)なのです(他の聖書では「ああ」「忌まわしい」と訳されています)。 

(2) つまずきをもたらす「人」

●この「ウーアイ」が最も使われている対象は、パリサイ人たち律法学者たちです。マタイ23章で、イェシュアは彼らに対して「わざわいだ、わざわいだ」と繰り返し語っています。なぜなら、彼らは自分たちこそ目の見える者として、人々を教えていたからです。彼らは自分たちが見えていると思っていたのですが、実は、イェシュアから見ると盲人であったのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書9章39~41節
39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。

●彼らの罪は「私たちは見える」と言っていたことです。しかし実際は、彼らの教えはイェシュアによれば「言い伝え」による人間の教えでした。「彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます」(マタイ15:14)とイェシュアは語っています。彼らの影響を受けた御国の民(ユダヤ人クリスチャン)が教会の中にも入ってきていたのです。この世においては、教会の中にあってさえも、「つまずきが起こるのは避けられない」のです。「避けられない」と訳された「アナーケイ」(ἀνάγκη)は「必然」「必ずそうなる」という意味です。使徒パウロのガラテヤ人への手紙は、まさに彼らとの戦いの手紙なのです。今回のマタイ18章7節の「つまずきが起こること」は必然だとしても、「つまずきをもたらす者」との間には「プレーン」(πλην)という「しかし」という反意の接続詞があります。つまり、この世はサタンによるつまずきが起こるのは避けられないとしても、つまずきをもたらす人は「わざわい」だとイェシュアは言っているのです。

ベアハリート

●イェシュアの時代の「パリサイ人たち」や「律法学者たち」を通して、人につまずきを与えることがどんなに「わざわい」なことか、「いまわしい」ことか、「恐ろしい」ことか、「災難」であることかを心に留めたいと思います。彼らは自分たちの歩みが「つまずきを与えている」とは微塵にも思っていなかったということです。最後に、以下のパリサイ人の祈りのたとえ話をもって、自戒としたいと思います。

【新改訳2017】ルカの福音書18章9~12節
9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』


2020.6.14
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