****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

弟子たちのつまずきの予告とその預言


112. 弟子たちのつまずきの予告とその預言

【聖書箇所】マタイの福音書26章30~35節

ベレーシート

●前回のメッセージでは、「過越の祭り」が「主の食卓」に取って代えられたことを学びました。「主の食卓」の制定は、神殿においてなされていたすべてのいけにえ制度が廃止されるだけでなく、祭司制度も食物規定もすべて無効にされることを意味していました。このことはたとえ預言されていたこととはいえ、ユダヤ人にとって受け入れがたいことであったことは容易に理解できます。そのためにイェシュアは拒絶され、引き渡され、苦しめられ、殺されるのです。本格的な受難はイェシュアが逮捕されたときから始まりますが、その嵐の前の静けさの中で、イェシュアは弟子たちのつまずきを予告されるのです。

●さて、過越の食事では賛美の歌が歌われます。歌と言っても、私たちが考えるような歌ではなく、語るような歌、すなわち朗唱です。その賛美の歌は詩篇113篇から118篇(=118篇は「メシア詩篇」)までです。第一の杯の後に詩篇113篇が歌われ、詩篇114篇が歌われた後に第二の杯が飲み干されます。イェシュアが弟子たちに「食事の後に杯を取った」とありますが、それは三杯目の杯です。その杯は「罪の贖いのため、すなわち新しい契約のために流される血を象徴するものでした。その杯を弟子たちは飲み干したのです。イェシュアはその杯から飲まず、神のみこころとして「多くの人の罪(複数)のために流される契約の血」として十字架上で飲み干されます。弟子たちが第三の杯を飲み干した後に、「彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた」(30節)とあります。その歌とは詩篇115~118篇なのです。

●最後の118篇の中に「家を建てる者たちの捨てた石。これが礎の石となった。これは主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」というフレーズの後に、「ああ、主よ。どうぞ救ってください・・主の御名によって来る人に、祝福があるように。」というフレーズがあります。つまり、この118篇にはメシアの初臨の死と復活のみならず、メシアの再臨前におけるイスラエルの悔い改めが預言されているのです。ちなみに、詩篇113~118篇は「エジプトのハレル詩篇」と呼ばれており、そこに流れている一貫した神学は、「『だれが、われわれの神、主のようであろうか』―主の卓越性、無比性―」です。これは、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)ということばに相当します。

●過越の食事での第四の杯はメシア王国が到来してからです。この時点までは、「すでに」と「いまだ」の緊張関係が継続しています。神のご計画における贖いは、包括的な意味においてはすでにキリストの十字架の死と復活によって完成しています。しかし個別的な意味においては、いまだ継続中です。その理由は、ひとえに多くの人々が救われるために他なりません。しかしそこに知り尽くしがたい神の知恵と知識が隠されています(ローマ11:33)。

●今日のテキストは、マタイの福音書26章31~35節です。

【新改訳2017】マタイの福音書26章31~35節
31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。
32 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
33 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
35 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。


1. 弟子たちのつまずきの予告とその預言

(1) 弟子たちのつまずきの予告 

●イェシュアと弟子たち一行は食事をした部屋を出てオリーブ山に向かって行きます。その途中でイェシュアは弟子たちに向かって31~32節のことばを語ります。そこには予告とその預言があります。イェシュアがユダヤ当局に引き渡され、受難と死、そして死からの復活と顕現、さらにその後のことまでを含んでいます。特に、「あなたがたより先にガリラヤへ行きます」ということばはここで初めて語られますが、それは復活後にガリラヤのある山において大宣教命令が語られることを示唆しています(マタイ28:16~20)。つまり、マタイの福音書の結末を指し示すことばとなっています。

●マタイの福音書26章31節の「つまずく」と訳されたギリシア語は「スカンダリゾー」(σκανδαλίζω)です。ここからスキャンダルという言葉が派生しています。新約では「つまずかせる、罪を犯させる」という意味で29回使われています。マタイだけでも14回。そして今回のテキストでは3回で、今回のメッセージにおける鍵語です。イェシュアが「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と言ったのに対し、ペテロを始めとする他の弟子たちがこぞって、「私たちは、決してあなたを知らないとは言いません」とそれを打ち消しました。イェシュアの語られることばを打ち消すのは、これがはじめてではありません。イェシュアが初めて受難の告知をしたときもそうでした。それは、イェシュアが自分のことを何というかと弟子たちに問い掛けた際に、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白した後に語られたイェシュアの受難と死と復活の預言です。

【新改訳2017】マタイの福音書16章21~23節
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた
※これを〔渡され、殺され、よみがえる〕で覚えると良いです。「渡され」とは「裏切られて引き渡される」ことで、そこから本格的な受難が始まるからです。このためにイスカリオテのユダが一役買うのです。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

●23節にある「わたしをつまずかせるものだ」の「つまずかせる」が「スカンダリゾー」(σκανδαλίζω)の名詞「スカンダロン」(σκάνδαλον)です。多くの訳が「邪魔をするものだ」と訳していますが、【新改訳2017】では「つまずかせる」と訳しています。いずれにしても、ペテロは神のご計画を知らずに反応していますが、その背後にはサタンがいることをほのめかしています。ペテロの反応は他の弟子たちを代表するものであったに違いありません。この受難の告知はこのあとに二度語られていますが、弟子たちは反応していません。そして今回、まさに数時間後に捕縛される矢先に、イェシュアが「今夜あなたがたは、わたしのゆえにみなつまずきます」と言います。そう言われても、弟子たちには何のことか全く分かっていなかったのです。「目がさえぎられていた」としか言いようがありません。何故、目がさえぎられていたのでしょうか。それは彼らがイェシュアに対して誤った期待を持っていたからです。その誤った期待とは何でしょうか。それはイェシュアこそメシアとして「イスラエルを贖ってくださるはずだ」という期待です。これは言い換えるなら、「イスラエルを復興してくださるはずだ」という意味です。この期待が弟子たちの心を支配していたため、神のご計画を見えなくしていたのです。こうしたことは、今日の私たち(教会)にも起こり得ることではないでしょうか。イェシュアに対する誤った期待です。だとしたら、「ああ、愚かな人たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(ルカ24:25)というイェシュアの声が聞こえてきそうです。

(2) つまずきの予告の預言

●31節に「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」(31節)の「つまずき」の理由が記されています。その理由とは、『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』というゼカリヤ書13章7節にある預言です。弟子たちがイェシュアにつまずくのは、彼らの信仰が弱いからでも、人間的に弱いからでもなく、弟子たちのつまずきが起こるのは神のご計画として必然的出来事なのです。ゼカリヤ書13章7節の預言を考える前に、イェシュアのことばには、旧約の預言者のような「預言者的遠近法」があるということです。

預言者的遠近法.PNG

●預言者に語られる神のことばは、その時代、その時代の人々に語られる事柄でなく、むしろ神のご計画の終わりの時点からしばしば語られているということです。つまりメシアの初臨と再臨の出来事が、時間軸をもたない二次元のピクチャーとして語られているということです。これを預言者的遠近法と言いますが、このことを知っておくことは、旧約の預言を読み解く上において重要な知識となります。

【新改訳2017】ゼカリヤ書13章7~9節
7 剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の【主】のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。
8 全地はこうなる──【主】のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。」

●7節はメシアの初臨のときに起こることが預言されています。「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の【主】のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。」とあります。ここでの「剣」とは、神の民を正しく指導しない指導者たちを表したたとえです。そして、「わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ」の「わたしの羊飼い」と「わたしの仲間」は同義でいずれも単数です。「わたしの仲間」と訳された原文は「ゲヴェル・アミーティ」 (גֶּבֶר עֲמִיתִי)で「私の同僚、隣人」を意味します。口語訳は「わたしの次に立つ人」、新共同訳は「わたしの同僚であった男」と訳しています。主の最も身近な人、主と一体となっている人、主の分身とも言える存在といえば、それはメシア・イェシュアしかいません。イェシュアも「父とわたしとは一つです」(ヨハネ10:30)と宣言されました。そして、その者に対して(~に向かって)、「目覚めよ」(「ウール」עוּר)、そして「打て」(「ナーハー」נָכָה)と命じています。「目覚めよ」とは「立ち上がる」こと、「打て」とは「打ち殺す」ことを意味しています。神が命じている相手は「」(「ヘレブ」חֶרֶב)にたとえられているユダの指導者たち(=祭司たちと長老たち)です。ですから、イェシュアを引き渡したイスカリオテのユダがゲツセマネにやって来た時、祭司長たちや長老たちから差し向けられた群衆が、剣や棒を手にしていたのは、まさに預言通りのことであったと言えます。

●この預言は、メシアであるイェシュアが十字架によって死ぬことを預言したものです。もし父から遣わされた御子イェシュアが殺されて死ぬことがなかったとしたら、イェシュアはメシアではなかったことになります。
イェシュアがユダヤ人の指導者たちによって打たれ、十字架で死ぬことによって人類の贖いのわざを成し遂げるという神のご計画があったからなのです。「羊飼い」であるメシア・イェシュアが打たれる(殺される)ことで、「羊の群れは散らされて行き」とは、単にイェシュアの弟子たちだけのことでなく、ユダヤ人の指導者とその民たちが世界離散することになることをも預言しています。事実、この預言はA.D.70年に成就することになります。「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」の「小さい者たち」とはイスラエルの民のことで、彼らに「この手を・・向ける(「シューヴ」שׁוּב)」とは、イスラエルの民が贖い主であるメシアの救いを受け入れるために、神が主権をもって備えさせるということで、その備えが8~9節に記されているのです。

【新改訳2017】ゼカリヤ書13章8~9節
8 全地はこうなる──【主】のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。」

●長い間、世界離散していた神の民(ユダヤ人、全イスラエル)をやがて神はエルサレムに集められます。その前に、彼らがイェシュアをメシアとして受け入れさせるために、神は反キリストを通して大患難という未曽有の苦難を通らせます。その苦難を通してイスラエルの三分の一だけが残されます。「イスラエルの残りの者」に再び主の御名を呼び求めさせ、神の真の民として純化させるというのが、ここにある預言なのです。苦難の目的は、「彼らはわたしの名を呼び」、わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』という関係が回復され、キリストの再臨を可能とするためです。

●ゼカリヤ書13章1節にある「その日に」、その日とはメシアの再臨において起こる事柄が預言されています。

(a) 罪と汚れをきよめる「一つの泉が開かれる」(1節)
●聖書で「泉」(ヘブル語は「マーコール」מָקוֹר)は、神ご自身の象徴です。しばしば「水の源」「いのちの泉」として表現されています。エレミヤ書2章13節では、「湧き水の泉であるわたしを捨てて」とあります。同、17章13節では「いのちの水の泉、主を」とあります。後に、イェシュアが仮庵の祭りの大いなる日(終わりの日)に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書がいっているように、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」と語られました。この「生ける水の川」とは「御霊」のことです。この御霊はイェシュアの十字架の死と復活の出来事の50日後に注がれました。しかし、ゼカリヤ書13章1節に預言されている「一つの泉」が開かれるのは、大患難の終わりの頃、キリスト再臨の直前に開かれる聖霊の泉です。残された神の民はこの泉の水を飲むことによって、自分たちの罪を悔い改め、民族的な回心へと導かれるのです。

●ちなみに、イェシュアが仮庵の祭りの時に「わたしを信じる者は、聖書が言っているように、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」と言われましたが、キリストの再臨の前に、再び聖霊が傾注されて、神の民イスラエルが主に立ち返って、神とのゆるぎないかかわりを結ぶことになるのです。

(b) 偶像礼拝からのきよめ、および偽預言者たちの除去(2~6節)
●「その日に」は、ユダの地から偶像礼拝が断ち滅ぼされ、偽預言者たちも真のメシアの到来によって恥を受けます。彼らが再び立つことは許されません。イスラエルの長い歴史の中で、偶像礼拝と偽預言者は神の民を神から引き離してきた最大の要因です。それゆえ「その日に」は、「偶像の名」は一掃され、偽預言者たちとその「汚れた霊」は、すべて取り除かれるのです。このように、ゼカリヤ書には預言者的遠近法がきわめて顕著です。

2. 「つまずき」は避けられない

●マタイに戻りましょう。イェシュアの預言的なことばの後で弟子たちの反応が記されています。

33 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
35 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。

●イェシュアが「今夜あなたがたは、わたしのゆえにみなつまずきますく」と言ったのに対し、ペテロを始めとする他の弟子たちもこぞって「私たちは、決してあなたを知らないとは言いません」とそれを打ち消しました。神のご計画において、つまずきは避けられません。なぜなら、使徒パウロが言うように「肉の思いは神に敵対するからです」(ローマ8:7)とあるからです。つまずきは肉の思いから生じているのです。「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちではなく、御霊のうちにいるのです。」(同、8:9)

●イェシュアが私たちのためになしてくださった贖いの一連の出来事の最後は、イェシュアが「いのちを与える御霊となられた」ということです。この事実を深く心に刻んで信仰によって受け取らなければなりません。この事実を受け入れ、信じることによって、イェシュアの語られた「わたしにとどまりなさい」という命令が私たちのうちに可能となるのです。この命令は「アオリスト命令形」と言って、私たちの主体的・自発的・一回的な決断を要求するものです。「アオリスト時制」それ自体は「~した」という単なる過去を意味しますが、それが命令形として使われる場合、きわめて特異な意味合いを持ちます。前回にも述べましたが、「とどまる」(つながる、住む)ということばは、神とのかかわりにおける奥義です。ですから、いい加減に聞き逃しているなら、多くの実を結ぶことは決してできません。肉は何の益にもなりません。霊の事柄だからです。また、その祝福を享受するためには多くの集中的、かつ継続的な時間が不可欠であることも言うまでもありません。

3. イェシュアのとりなしの祈り

●マタイでは扱っていませんが、ルカの福音書ではペテロが大言壮語する(22:33~34)前に、彼に対するイェシュアの計らいが記されているのです。

【新改訳2017】ルカの福音書22章31~32節
31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

●シモンの名前が「シモン、シモン」と二度呼ばれています。彼の他にも名前をニ度呼ばれた人物がいます。
①モーセ(出エジプト記3:4) ②アブラハム(創世記22:1) ③ ヤコブ(創世記46:2) ④サムエル(Ⅰサムエル記3:10) ⑤ サウロ(使徒9:4, 22:7, 26:14)がそうです。これらの人々は神から直接、名指しで召された者たちです。彼らだけでなく、私たちも名指しで呼ばれた者です。それは特別に名誉なことであり、神から特別な使命と励ましを受けることでもあるのです。その証拠が32節の「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」ということばです。このことがなければ、信仰に立っていることなどできないからです。

●サタンは、イスカリオテのユダの中に入ってイェシュアを裏切るように駆り立てました。ペテロや他の弟子たちに対してもその攻撃の刃を向けようとします。「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました」とあるのがそれです。「麦のようにふるいにかける」とは、実と籾殻を仕分けることを意味します。したがって、サタンは使徒たち(ルカの場合は弟子ではなく「使徒」ということばを使っています)をイェシュアから引き離すべく誘惑することが許されているという意味です。

●使徒たちの中でもペテロに焦点が当てられ、彼の信仰が危機にさらされることになることを見越して、彼のために祈ったと述べています。ペテロの強がりのことばにもかかわらず、ペテロはイェシュアを知らないと三度も否定してしまいます。そのことを見越した上でイェシュアは彼のために祈っているのです。もしイェシュアがペテロのために祈っていなかったとしたらどうなっていたでしょう。ペテロは信仰を失い、サタンの力に屈服してしまったはずです。しかし、イェシュアのとりなしの祈りによってサタンの攻撃は阻止されました。

●ペテロに対するイェシュアの励ましのことばー「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」があります。「立ち直る」と訳されたギリシア語は「神に立ち返る、向きを変える」ことを意味する「エピストレホー」(ἐπιστρέφω)です。この言葉をヘブル語に戻すと「シューヴ」(שׁוּב)となり、しかもその「シューヴ」が二重に重ねられています。「立ち返り、立ち返る」というふうに。

●イェシュアの祈りはペテロが失敗しないようにと願ったのではなく、失敗しても神にしっかりと立ち返るようにと祈られたのです。ここが重要な点です。つまり、失敗したところから悔い改めて神に立ち返ることができるのは、私たち人間の力ではなく神の恩寵的なわざだからです。ですから、立ち返った者に対する神の要求は大きいのです。これは「多く与えられた者は、多く要求される」という御国の原則です。ペテロの場合、その要求は「兄弟たちを力づける」ということでした。イスカリオテのユダの場合にはこれがありませんでした。

●この「力づけてやりなさい」という命令も、先に述べた「とどまりなさい」と同様、命令形アオリストになっています。この「力づける」(「ステーリゾー」στηρίζω)は、「しっかりと据え置く、堅く据える、固定させる、強固にする、強める」といった意味です。重大な務めを担うことばです。しかしこの働きも神の力によってなすことができるのです。なぜなら「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」とあるからです。「~してやりなさい」という一方的な要請ではなく、とりなしによって、「あなたは必ず~するようになる」からです。イェシュアのとりなしの祈りをこのように理解する必要があります。イェシュアは今天の神の右の座において私たちのためにとりなしておられます。このとりなしによって、私たちは堅く立つことができ、人を「力づける者とされる」のです。事実、ペテロを初め、他の弟子たちもそのような者となっていくのを私たちは知っています。私たちが犯す過ちと失敗は、神のあわれみの発動の場となるのです

ベアハリート

●今回は、イェシュアと弟子たちが賛美の歌を歌った後で弟子たちがつまずくことをイェシュアは予告されました。これは私たちがいつも神の恵みの中にあるということの励ましです。私たちがいつも礼拝の中で賛美している最後の歌は、詩篇118篇の冒頭と終結にある以下のことばです。

画像の説明

●この賛美は、同じく詩篇118篇22~24節にある「家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。これは【主】がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう」というフレーズと共に、天の御国における神の民の賛美の基調になることでしょう。イェシュアを通してなされる恵みに満ちた神のご計画に、いつも心に留める者となれるように祈りましょう。

2021.9.5
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