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彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きの罪

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43. 彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きの罪による

【聖書箇所】 イザヤ書53章5節前半

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【読み】
ヴェー メホラール ミッペシャーーヌ メドゥー メーアヴォノーヌ

【文法】
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「刺し通され」「砕かれた」という動詞には3人称単数の「彼は」が含まれています。にもかかわらず、冒頭の「しかし、彼は」の「ヴェフー」וְהוּאは、主のしもべの存在を強調するためです。

【翻訳】

【新改訳改訂3】
Iしかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
【口語訳】
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
【新共同訳】
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。
【NKJV】
But He was wounded for our transgressions, He was bruised for our iniquities; 
【私訳】
しかし彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きの罪による。彼が砕かれたのも、私たちの咎によるのだ

【瞑想】

第四の「主のしもべ」のテーマは受難のしもべです。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけものにされ、私たちも彼を尊ばなかった。」(53:2~3)とあります。人から完全に拒絶されるしもべの姿です。

4~6節は極めて重要な箇所です。なぜなら、そこには神の贖罪(赦罪)の計画、つまり、代償的刑罰とそれによってもたらされた福音の骨子が収められているからです。多くの人々は、彼が神から罰せられ、神に打たれ苦しめられたのだと思いました。しかし事実は全く違ったのです。

5節の「しかし、彼」(ヴェフーוְהוּא)が「刺し通され」「砕かれた」のは、私たちの背きの罪によるもの、私たちの咎によるものであり、それは私たちの身代わりとしての受難であったのです。二つの動詞はいずれも強意形で、残忍な苦痛に満ちた死を示します。それはやがて神のしもべイエス・キリストの十字架という受難によって現わされました。主なる神が、私たちのすべての咎を身代わりとして彼に負わせたのです(53:6)。

「主のしもべ」は、自分自身の罪によるものではなく、私たちの犯した罪を償うために、私たちに代わってさばきの痛みをその身に負われました。

5節後半のフレーズをみてみましょう。
「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によつて、私たちはいやされた。」とあります。
しもべの「懲らしめ」と「打ち傷」(鞭で打たれることによって皮膚に生じるミミズ腫れのこと)によって、私たちに「平安」と「いやし」がもたらされたのです。

6節には「主のしもべ」がなぜ苦しみを受けなければならなかったか、その理由が別の視点から再述されています。その理由とは、「私たちがみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」ことです。私たちの内にある自己中こそが、主のしもべを苦しめることになった根本原因です。

神の民であるユダヤ人もこのことが理解できずに、イエスを犯罪者として死に渡したのです。

【付記】


2013.3.29


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