****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

従順による祝福と不従順によるのろい(1)

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

27. 従順による祝福と不従順によるのろい (1)

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ベレーシート

  • 「祝福」と「のろい」の神学は、神がイスラエルの民をエジプトから贖い出されたという歴史的事実と、シナイ山で(夫婦としての)契約を結ばれたという枠で理解されるべきです。「祝福」と「のろい」は、出エジプト記23章20~33節、および申命記の26~30章でも取り上げられています。レビ記26章の特徴は、シナイ契約の枠を越えて、アブラハム、イサク、ヤコブの契約にまで主の救いの動機が記されていることです。これは申命記にはないもので、特筆すべき点なのです。
  • レビ記26章の構造は、以下の通りです。
11~2節序文(偶像礼拝の禁止、安息日厳守、聖所を恐れること)
23~13節従順による祝福
314~39節不従順によるのろい
440~45節悔い改めによる回復
546節結句


  • 今回は、序文の1~2節のみ取り上げます。そこには神と民との根源的なかかわりの再確認がなされています。

【新改訳改訂第3版】レビ記 26章1~2節
1 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、【主】だからである。
2 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは【主】である。


●1節の「偶像」のヘブル語は「エリール」(אֱלִיל)の複数形「エリーリム」(אֱלִילִם)です。意味は「無価値、虚無、偶像」で、旧約では21回。レビ記では19章4節と26章1節の2回だけですが、イザヤ書では10回使われています。虚無、空しい、偽りの神です。ちなみに、出エジプト記20章の十戒では、「ペセル」(פֶּסֶל)が「偶像」と訳されており、こちらの方が(31回)一般的です。「ペセル」は刻まれた目に見える像を意味します。


1. 偶像礼拝の本質とは何か

  • 偶像礼拝の本質は「自分のために」です。ここに神が偶像礼拝を禁じられる理由があります。自分のために偶像を造ったり、それにひれ伏したりしてはならないのは、神が彼らをエジプトの地から連れ出した神であることを根底から覆すことになるからです。
  • 今日(現代)における思想は「実存主義」に基づいています。それは神の創造と神のご計画に基づく終末の教えを疎かにするとき、その空洞化を埋めるために、自ずと入ってくるこの世の哲学です。自分の死を自覚しつつ、限られた人生の中で何をなすべきかと問いかけ、有意義な人生の意味を見出そうとするこの世の哲学です。そこには神のご計画や目的の本質を追い求めようとする信仰はなく、すべてを自分自身で決定し、この世の価値観を基準にして有意義と思われることを追い求めようとする生き方です。従って、そこには本来の(天来の)自分の存在の意味や目的といったものは存在せず、自分でそれを見い出し、自分で作って行く生き方、それが偶像礼拝の本質です。
  • そうした実存主義的偶像を造ることが禁じられているのは、「エリーリム」(אֱלִילִם)という語彙が意味するように、それらの末路が「無価値」であり、「虚無」だからです。

2. なにゆえに「安息日」を守り、「聖所」を恐れなければならないのか

  • 偶像礼拝の禁止と共に、「あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。」とあるのは何ゆえなのでしょうか。

(1) 「安息日」を守ることの必然性

  • レビ記の瞑想のNo.21, 25, 26でも取り上げたように、「安息日」は神の創造の目的と密接な関係があるからです。「安息日」は、神が六日の間、天と地を創造されてから七日目に「休まれた」ことに起因しています。七年目ごとに「地の安息」として土地を休ませること、さらにその七倍に当たる四十九年目と五十年目の「ヨベルの年」(二年間)は、神がすべてのものを本来の姿に回復されることの「型」となっています。それゆえ「安息日を覚えて、これを聖とする」ことは、神の究極的なご計画と目的を常に思い起こすことになります。それが自分中心の生き方から私たちが守られる唯一の方法であり、神の知恵なのです。
  • 今日のキリスト教会における終末論の混乱、あるいはそこから来る無関心さは、実存主義的傾向を教会に持ち込む誘因となっています。それゆえ、光の子どもらしく、「光」と「やみ」の概念を区別する生き方が求められます。それは具体的に今の自分の存在と意味を神のご計画とみこころ、御旨と目的という視点から見直すという転換が必要です。

(2) 「聖所」を恐れることの必然性

  • なにゆえに、主は「わたしの聖所を恐れなければならない」と語っているのでしょうか。「わたしの聖所」とは「主の幕屋」、あるいは「主の家」のことです。幕屋は神と人とが共に住むためのものですが、その幕屋を構成するひとつひとつが啓示しているのは、神の御子イェシュアについてです(これについては「神の御住まい(幕屋)」を参照のこと)。つまり、「わたしの聖所」とはイェシュアのことを示唆しています。私たちはだれでもこのイェシュアなしに神と共に生きることは不可能です。イェシュアなしに神からの祝福を受けることはできないのです。このイェシュアをいつも「恐れる」とは、イェシュアを完全に信頼することです。この方こそ天にある安息を私たちにもたらしてくださる唯一の方だからです。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


●「住まわれた」(「スケーノー」σκηνόωのアオリスト)とは「幕屋を張った」という意味。「幕屋を張る」とは「神が人と共に住む」ことを良しとされたことを意味します。

  • 幕屋の中で最も聖なる場所は、至聖所にある「贖いのふた」です。そこにはイェシュアの尊い血潮とそれによってもたらされる罪の赦しと安息が啓示されています。御使いのケルビムも最大の関心と驚きをもってそこを見ているのです。


画像の説明

べアハリート

  • 偶像を造らずに、「安息日」の真の意味を悟ってそれを守り、また「神が人とともに住む」という神の聖所(幕屋)の真理を悟ってそれを敬うことこそ、破格の祝福を受ける道です。しかもそれは、神の永遠のご計画とみこころに適ったことなのです。


2016.7.2


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