****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

御父に祝福された異邦人(羊とやぎのたとえ)


108. 御父に祝福された異邦人(羊とやぎのたとえ)(オリーブ山の説教⑥)

【聖書箇所】マタイの福音書25章31~46節

ベレーシート

●天の御国に関する説教Ⅴの「終末に関する説教(24~25章)」の最後のたとえは、今日、最も誤解されている教えかもしれません。31~46節(=16節)という長い箇所ですが、内容は「あなたがたが、わたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」ととてもシンプルです。その反対である「・・にしなかったのは、わたしにしなかったのだ」も然りです。

●ここで「あなたがた」とは、教会でもなく、ユダヤ人でもなく、イェシュアを信じていない異邦人のことです。「わたしの兄弟たち」と「最も小さい者たち」は同義で、ユダヤ人を意味しています。したがって「彼らの一人にしたことは、わたしにしたのです」とは、ユダヤ人にしたことは「わたし」、つまりイェシュア自身にしたことと同じであるとしています。このたとえ話は「終わりの日」、すなわちキリストの再臨に関する話です。キリストの再臨前には獣と呼ばれる反キリストによってもたらされる未曽有の大患難があります。その大患難は、十字架につけたイェシュアこそがまことのメシアであることをユダヤ人に信じさせるための最後のチャンスとして、神がご計画されたものです。その大患難の時に異邦人がユダヤ人に対してどのような態度を取るか、それに基づくさばきがここで語られているのです。教会はおそらくそれ以前に携挙されていますから、クリスチャン向けの話ではありませんが、神のご計画において神が何を大切にしておられるのかということを学ぶことができます。キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し完成しますから、今日の学びは私たちにとって励ましとなるはずです。

●テキストをいくつかの部分に分けて考えて行きたいと思います。

1. 人の子の栄光の座の前に集められるすべての国の人々

【新改訳2017】マタイの福音書25章31~32節
31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように、彼らをより分け、・・・

●31節には「さて」という接続詞(「デ」δέ)があります。24章32節で対象がイスラエルから教会へ変わる時にも同じ接続詞がありました。つまりここから新しい事柄が語られているという合図になっています。ただし、【新改訳2017】はいずれもそれが訳出されていません。

●「人の子」とはメシア・イェシュアのことです。その方が「栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき」とは、メシアの地上再臨を指します。そのときに、メシアは地上において「栄光の座」に着かれます。おそらく、その座は「ダビデの座」と呼ばれ、エルサレム(シオン)に据えられます。人の子であるイェシュアが、ハルマゲドンに集結した反キリストによる異邦人の軍勢をエルサレムにおいて滅ぼした後に、地上で御国の王となり、栄光の座に着かれるのです。これはイザヤ書9章7節の成就です。

【新改訳2017】イザヤ書 9章7節
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

●この預言が成就する前に、マタイ25章32節にあるように「すべての国の人々が御前に集められ」るのです。「すべての国の人々」とは「あらゆる諸国民(異邦人)」のことです。その目的は何でしょうか。人の子(再臨されたメシア・イェシュア)である羊飼いが羊をやぎからより分けるように、彼らをより分けるためです。

●今回のテキストのたとえは、マタイの福音書13章47~50節の「地引き網のたとえ」にある海から魚が集められるのと似ています。「海」は諸国を意味し、「魚」は諸国の民を意味します。そこでも「この世の終わり」に御使いたちが来て、正しい者たちと悪い者どもをより分けるという話です。「毒麦のたとえ」も同様に、御使いたちが毒麦を取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込むとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝くということが語られていました。

●二世紀後半に作られ、教会の基本的な信仰告白をまとめたものとして「使徒信条」があります。今日でも、カトリック教会やプロテスタント教会では毎週の礼拝の中で唱和しているようです。その使徒信条に「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」というフレーズがあります。まず「生ける者」のさばきの箇所が、マタイにある「すべての国の人々が御前に集められ」てより分けされる部分に該当します。そして「死にたる者」がさばかれるのは、メシア王国(千年王国)が終わる時のことで、それまで死んでいた多くの者たちが復活して、「大きな白い御座」において永遠のさばきが行われる部分(黙示録20:11~15)に当たります。そのことを、使徒信条では「死にたる者をさばきたまわん」としているのです。

●信条は異端の教えから教会を守るためのものとして、また、信仰者の育成のためのものとして使われてきています。とはいえ、聖書そのものが約束している御国(メシア王国)のすばらしい祝福が、使徒信条の中には全く含まれていないのです。すっぽりと抜け落ちています。使徒信条が私たちの一つの「理解の型紙」となることで、知らず知らずのうちに、聖書が繰り返し預言し、語っている大切なことが抜け落ちているということです。恐れずに言いますが、果たして使徒信条を告白する教会でどれだけの教会が、教会の唯一の希望である携挙や、キリストの再臨後の地上での千年間におよぶメシアによる統治のすばらしさを知っているのでしょうか。私たちの団体が20世紀初頭に神の教会改革運動として生まれ、「一切の信条を否定してきたこと」の重みを今更ながら私は思い知らされています。

●「かしこより来たりて」とは「神の右に着座されたところから来て(つまり、地上に再臨して)」という意味です。この信条が作られた時代の教会は、千年王国は文字通りではなく、教会こそが王国であり、キリストはその上に君臨していると信じていました (無千年王国説)。16世紀には、教会の維持のために免罪符なるものを買うことで罪が赦されるとしたカトリック教会の教えに対して、マルチン・ルターが「信仰によってのみ義とされる」という初代教会の教えを回復して宗教改革をもたらしたことは有名です。キリスト教の歴史において、その後も初代教会にあった数多くの教えが回復されてきました。特に1820年以降、ブラザレンの流れが台頭すると、千年王国(メシア王国)は「文字通りの千年間のメシアによる統治である」という教えが回復されるようになります。その立場からすると、使徒信条における「生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」の告白は(間違いではありませんが)、神のご計画においては不充分な告白に感じられるのです。キリスト教会において、さまざまな回復運動がなされたそれらの啓示は、教会にとっていのちを与えるものとなっています。

●少し話が脱線した感じですが、話を戻すと、「死にたる者のさばき」とは千年王国後にある「白い御座のさばき」のことであり、イェシュアをメシアとして信じなかった者たちが再び死からよみがえって、神の最終的なさばきを受けるという意味になります。また「生ける者のさばき」とは、キリストが地上再臨される時のさばきを意味します。そのさばきとは、生きたままで御国に入ることが許される者と、許されない者とを区別するというさばきです。これが「生ける者のさばき」です。今回はここが焦点となっています

2. 御国を受け継ぐために、世界の基が据えられたときから備えられていた者たち

【新改訳2017】マタイの福音書25章33~34節
33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

●人の子は、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。羊もやぎもいずれも異邦人です。しかも、イェシュアをメシアだと信じていない者たちなのです。イェシュアが御父の右の座に着いたように、右には「信頼する者」を置きます。俗にいう「自分の右腕」という表現と同じ意味です。羊にたとえられた者たちのことを、「わたしの父に祝福された人たち」とも言われます。そして彼らのために、「世界の基が据えられたときから、備えられていた御国を受け継ぎなさい」と言われていますが、これは以下の、教会のクリスチャンに対して語られていることばと同じです。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章3~4, 11節
3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
11 またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。・・


(1) 信仰がなくても御国を受け継ぐという基準

●今回は、信仰がなくても御国を受け継ぐ者がいるという話です。その条件は大患難という未曽有の苦しみの中でユダヤ人を助けるということです。それは本人たちが理解していなくても、神のご計画に参与したということで、御国を受け継ぐ理由となっているのです。しかもそのことは、世界の基が据えられる前から決まっているというのですから驚きです。

【新改訳2017】マタイの福音書25章35~40節
35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

●御国に入る者と御国に入ることができない者とをより分けるための基準が、イェシュア・メシアによる福音を信じるか否かではないというは、教会にとっては異質なものです。しかし神がアブラハムと交わされた約束を知っている者にとっては、決して突飛な話ではないのです。

【新改訳2017】創世記12章1~3節
1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

●創世記12章1~3節はアブラハム契約と言われるものです。特に3節の「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう」と言われていることが実現するのが、「羊とやぎのたとえ話」なのです。
「羊」とは「あなた(=アブラハム)、すなわちイスラエルを祝福する者」のことです。また、反対の「やぎ」とは「イスラエルを呪う者」のことです。「呪う」は「カーラル」(קָלַל)で、「軽んじる、卑しめる、軽蔑する、あざける」という意味です。そのような反ユダヤ主義者を神はのろわれるのです。無関心も同様です。「のろう」は「アーラル」(אָרַר)で「のろいを受けて」永遠のさばきにあうことが定められています。

(2)「正しい者たち」の例

①ドイツの実業家オスカー・シンドラー 
●スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』(1993年、映画の本となった原題は「シンドラーの箱舟」)の中で、ユダヤ人を助けたドイツの実業家オスカー・シンドラーという人がいます。彼は強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自分の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救ったと言われています。戦後、ユダヤ人とその子孫たちはこのような人を決して忘れることがありませんでした。イスラエルの建国時(1945年5月8日)に、シンドラーの下にいたユダヤ人たちから一つの指輪が贈られました。この指輪は、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが感謝のしるしとして、彼らが唯一持っていた本物の金歯からつくったものでした。「一人の人間を救う者は世界を救う」というタルムードにあるこの言葉が、贈り物の指輪に刻まれていました。

②日本の外交官杉原千畝 
●同じく第二次世界大戦時に、ヒットラーによるユダヤ人対する迫害の中、国からの命令に逆って、ユダヤ人にビザを出し続けた杉原千畝という外交官がいます。杉原千畝の場合は、博愛精神によってビザを発行することで六千人のユダヤ人を救いました。もし彼らが救われなかったとしたら、ユダヤ人の子孫は存在していません。1985年、杉原千畝はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を受賞しています。そして翌年、彼は病気で亡くなりました。

●オスカー・シンドラーにしても杉原千畝にしても、彼らは異邦人の型です。彼らがユダヤ人を救った時期は「終わりの日」の大患難とは異なります。しかし、ユダヤ人を助け、イスラエルの子孫が生き残るために彼らを用いられたのは神ではないでしょうか。そのように者たちの存在を、神は「世界の基が据えられたときから」備えておられたと考えるならば、彼らが御国に入るのは自然なことです。

③旧約の異邦人の女ヤエル
●士師記4章と5章は、イスラエルがカナンの王ヤビンの将軍シセラと戦ったことが記されています。その戦いに決定的なとどめを刺したのは、なんと異邦人であるヘベルの妻ヤエルでした。イスラエルの戦いにおいて、異邦の女性が活躍したのはこれが初めてのことだと言えます(※ヨシュアの偵察隊をかくまったカナン人ラハブを別にすれば)。

●この戦いの舞台は、やがて終わりの時代の最終戦争のための集結場となる「メギド」の付近の広大な平地です。「ハルマゲドン」とは「メギドの山」を意味しています。メギド付近に戦車を主力部隊とするカナン軍が集結しての戦いとなりました。人間的に考えるならば、イスラエルにとって勝ち目のない戦いでしたが、結果的にはイスラエルの完全な勝利に終わりました。どのようにして勝利がもたらされたのかといえば、5章にある「歌」の中にその答えが記されています。その理由は、雨が降ることで、キション川が氾濫し、地はぬかるみとなって戦車が使えなくなったからでした。だれがこんな戦いを前もって想像し得たでしょうか。しかしイスラエルの女預言者デボラは神の勝利を確信しました。彼女は「彼(シセラ)をあなたの手に渡す」との神のことばを信じて戦いますが、それは彼女の右腕となって戦うバラクによってではなく、「主は女の手にシセラを売り渡される」というのがデボラに与えられていた託宣でした。そしてそのとおり、逃げ延びたシセラを打ち取ったのはヤエルという女性であったのです。

【新改訳2017】士師記5章24~27節
24 女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている
25 シセラが水を求めると、彼女は乳を与え、高価な鉢で凝乳を差し出した。
26 ヤエルはを手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。
27 彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れ、横たわった。彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れた。膝をついた場所で、倒れて滅びた。

●「ケニ人」(קֵינִי)とは、「カイン」(קַיִן)から来た部族名で、元来は「鍛治」の技術にすぐれていました。シセラはケニ人ヘベルの妻によって殺されました。それは彼女が杭と槌で彼のこめかみを打ち砕いたからです。なぜ「杭」と「槌」で殺したのでしょうか。それは彼女の家が鍛冶職人の家だったからです。彼女は異邦人であったにもかかわらず、マリアと同様、「最も祝福される」者として記されています。しかも、ヤエル(יָעֵל)という名前の語源は「ヤーアル」(יָעַל)で、「助けになる、役に立つ、益になる」を意味します。まさに、彼女はイスラエルの苦難において、イスラエルに勝利をもたらす役立つ存在であったのです。

3. 御国に入る者とはだれか

A. メシア王国に⼊る者たちはどのような者たちなのか

(1) 再臨のメシア
(2) 携挙された教会
・・(メシアニック・ジューと異邦⼈からなる教会)
(3) 患難時代に信仰を与えられ殉教する異邦⼈
・・(「大勢の群衆」黙⽰録 7:9〜17=「男の⼦」同12:5, 11)。
(4) 旧約の聖徒たち
(5) イスラエルの残りの者
・・(大患難時代にイェシュアをメシアと信じるユダヤ⼈)
(6) ユダヤ人、イスラエルの残りの者(=最も⼩さい者たち)を助けた異邦⼈
・・(⽺にたとえられる者たち)。

●上記のうち、(1)~(4)が〔御霊のからだ〕で、(5)は⾎⾁のからだのままで御国に⼊ることになります。(6)の者たちはその両方です。(6)の者たちは、創世記 12 章 3 節にある「あなたを祝福する者をわたしは祝福する」と約束された者たちです。彼らはイェシュアがメシアとは知らずに御国に⼊ります。その数は未知数です。彼らはおそらく御国において初めてイェシュアがメシアであることを目の当たりにし、信じて永遠に救われることになるでしょう。

B.「あなたを⼤いに祝福し、あなたの⼦孫を、空の星、海辺の砂のように⼤いに増やす」約束

【新改訳 2017】 創世記22章15〜17節
15 【主】の使いは再び天からアブラハムを呼んで、
16 こう⾔われた。「わたしは⾃分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを⾏い、⾃分の⼦、⾃分のひとり⼦を惜しまなかったので、
17 確かにわたしは、あなたを⼤いに祝福し、あなたの⼦孫を、空の星、海辺の砂のように⼤いに増やす。あなたの⼦孫は敵の⾨を勝ち取る。

●創世記22章17節の約束は、⾎⾁のからだをもって御国に⼊った(5)と(6)の者たちに対するものです。なぜなら、血肉のからだでなければ子孫が増えることはないからです。御国での年齢はかつてのノアの時代の時のように⻑寿になります。それゆえに、爆発的に数が増えることになるのです。

【新改訳 2017】イザヤ書65章20, 22~23節
20 そこにはもう、数⽇しか⽣きない乳飲み⼦も、寿命を全うしない⽼⼈もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
22 ・・わたしの⺠の寿命は、⽊の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、⾃分の⼿で作った物を存分に⽤いることができるからだ。
23 彼らは無駄に労することもなく、⼦を産んで、突然その⼦が死ぬこともない。 彼らは【主】に祝福された者の末裔であり、その⼦孫たちは彼らとともにいるからだ。

●「その⼦孫たちは彼らとともにいる」とは何世代にもわたって生きている期間が重なっていることを⽰しています。それゆえ、数が爆発的に増えるのです。ただメシア王国は御霊のからだを与えられていない者たちがいるために、完全に罪と死が無いという世界ではありません。それゆえに、千年後にサタンが解放される時に彼らのうちから神に敵対する者(「ゴグとマゴグ」。ただしこれはエゼキエルが預⾔する「ゴグとマゴグ」とは異なります)が集結します。しかし、彼らはメシアによって⼀瞬にして⽕で焼き尽くされます。

【新改訳 2017】ヨハネの黙⽰録20章7〜9節
7 しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、
8 地の四⽅にいる諸国の⺠を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て⾏き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。
9 彼らは地の広いところに上って⾏き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から⽕が下って来て、彼らを焼き尽くした。

●神のご計画を知ることで、聖書はより立体的になり、ひとつの書となって私たちに語りかけてきます。そして、それは神が私たちの中に永遠に住まわれることにおいて、きわめて重要な知識なのです。

2021.7.18
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