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御父・御子・御霊のゆるぎない交わりを証する詩篇

10. 御父・御子・御霊のゆるぎない交わりを証する詩篇

はじめに

  • 詩篇に登場する人物は、まず「作者(祈り手)」、祈りの対象である「神」、そして祈り手に寄り添う「人称なき存在」、「敵」、「祈り手の仲間たち(共同体、聖徒たち)」などです。一つの詩篇の中にこれらすべてが存在している場合もありますが、祈り手である私と神というかかわりしかない詩篇もあります。
  • 御子イエスがどのように御父にとどまり、御父が御子にとどまられたか。あるいは御霊がどのように御子にとどまられたかを知る上で、詩篇は大きな助けとなります。なぜなら、詩篇は、三位一体なる神のゆるぎない交わりがいかなるものであるかを啓示しているからです。新約聖書は多くの詩篇から引用されています。人となられた御子イエスが詩篇を祈られたということも決して不思議ではありません。
  • 具体的に、どのように詩篇が三位一体なる神の交わりを啓示しているかをみてみましょう。
    ここで例としてあげるのは詩篇91篇です。

1. 人称代名詞がだれであるかをはっきり理解する

  • ドラマには登場人物だけでなく、その相関図を理解しなければならないように、詩篇においても、個々の詩篇に登場する存在の相関図を頭の中に入れる必要があります。
  • 詩篇91篇には、「私」、「主」、「あなた」、「わたし」、「彼」といった人称が出てきます。この人称代名詞が誰を示しているかを正確に客観的に理解する必要があります。この段階で恵まれることはありません。瞑想のための準備に過ぎないからです。しかし、この作業をすることで詩篇全体が見えてきます。
  • イエスが「聖書はわたしのことをあかししている」と言われましたから、見出した人称に三位一体の神を当てはめてみます。御子が設定されるならば、そこには当然、御父と御霊がいつも密接にかかわっているわけです。とすれば、詩篇91篇の場合、2節の「私」とは「御子」であり、「主」とは御父のことです。また14節の「わたし」は御父で、「彼」とは御子のことです。そして人称なきすべての部分は、御子に寄り添って、励まし、慰めている「御霊」ということができます。この御霊は「主」である御父と、「あなた」である御子との麗しい愛のかかわりを生かしておられます。

2. 御子と御父のかかわり

  • 詩91篇では、御子の祈りの部分はわずか2節のみです。それは御父への信仰告白ー「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」として語られています。一方、御父は、14節以降で「彼(御子)が、わたし(御父)を愛しているから彼を助け出そう。彼が私の名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。・・・」と御父の御子に対する応答が記されています。

3. 御子に寄り添って援護している御霊

  • 詩篇91篇の特徴は、祈りの主体であられる御子とその御子に寄り添って支えている御霊の励ましのことばが多くの部分を占めています。たとえば3~13節は、「主(御 父)はご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなた(御子)は、その翼の下に身を避ける。主(御父)の真実は大盾であり、とりでである。」とあり、たとえさまざまな恐れが襲ったとしても、「それはあなた(御子)が『私の避け所である(と告白する)主(御父)』を、あなた(御子)の住まいとしたからである。」との確信を御霊は御子に与えています。

4. 御子にとどまることによって、私たちは三位一体なる神の交わりの中に生かされる

  • 詩篇91篇では、三位一体なる神がどのようにとどまり合っているかを垣間見せてくれます。私たちはそこへ招かれ、そこにとどまるようにと命じられているのです。そこにはゆるぎない愛と信頼の交わりが存在しています。しかも流動的につながりあっています。これが「永遠のいのち」と言われるものです。そのいのちの中に、私たちはダイナミックに生かされるのです。

2010.11.18

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