****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

心頑なにするメッセージ

3. 心頑なにするメッセ―ジ

【聖書箇所】イザヤ書6章1~13節、29章1~14節

ベレーシート

●イザヤ書で「見よ」(ヒンネー:הִנֵּה)、「その日には」(バッヨーム・ハフー:בַּיּוֹם הַהוּא)という語彙が出て来る場合、旧約時代に起こった歴史的出来事があり、それを型とする終末的な出来事が重層的に預言されています。また終末的な出来事と言っても、以下のように、

①「大患難時代に入る前のイスラエルの民」  
②「大患難時代のイスラエルの民」
③「メシア再臨後の千年王国のイスラエルの民」

を含んでいます。①②③の区別は文脈によって判断する必要があります。いずれにしても「イスラエルの民」の中の「イスラエルの残りの者」(ヤコブの残りの者)が重要で、これは終わりの日に登場します。以下のテキストでは②と③が預言されています。

【新改訳2017】イザヤ書10章20~22節
20 その日になるとイスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。
21 残りの者ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
22 たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。
※「壊滅」とは反キリストの軍隊の壊滅を意味し、「義」とはイスラエルの残りの者の救いを意味します。

●イザヤ書で「見よ」(ヒンネー:הִנֵּה)は81回。「その日には」(バッヨーム・ハフー:בַּיּוֹם הַהוּא)は47回にも及びます。それだけを抽出するだけでも、終わりの日の多くの情報を得ることができます。今回はイザヤ書6章を扱いますが、1~5章の中でも「見よ」は4回(3:1, 5:7,26,30)。「その日」は8回(2:11,17,20, 3:7,18, 4:1,2, 5:30)、終わりの日のことが預言されています。

1.「私は主を見た」(I see the Lord)

【新改訳2017】イザヤ書6章1~7節
1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、
2 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、
3 互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」
4 その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。
5 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」
6 すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。
7 彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」

●1節に「ウジヤ王が死んだ年に」とあります。聖書において「死」はしばしば新たな啓示の契機となります。たとえば、アブラムにとっての父テラの死、ヨシュアにとってのモーセの死、そしてイザヤにとってのウジヤの死がそうです。新しい使命を担って召される者にとって、死が意味のある神の時となっているのです。ユダの王ウジヤ(本名はアザルヤ)は、治世52年間のうち、最後の10年間は高ぶりと不信の罪によってツァラアトになってしまいます。彼の死は見せかけの繁栄が終わった象徴的な出来事と言えます。そのような年に、イザヤは「主を見る」経験をしたのです。この経験が意味することは、真にイスラエルの民を治める方は「高く上げられた御座(=王座=キッセー:כִּסֵּא)に着いておられる主」であり、しかもこの主は、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と呼び交わしている「全地の王」です。この「全地の王」がやがて現れる再臨のメシア・イェシュアなのです。

(1)「全地の王」なるイェシュア

●詩篇47篇は、この「全地の王による統治のヴィジョン」を預言しています。

【新改訳2017】詩篇47篇1~9節
1 すべての国々の民(コル・ハーアンミーム:כָּל־הָעַמִּים)よ 
手をたたけ。喜びの声をもって 神に大声で叫べ。
2 まことに いと高き方主は恐るべき方。全地を治める 大いなる王
3 国々の民(アンミーム: עַמִּים)を私たち(=イスラエルの残りの者)のもとに 
もろもろの国民(レウッミーム:לְאֻמִּים)を私たち(=イスラエルの残りの者)の足もとに従わせられる。
4 主は 私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。セラ
5 神は上られる(עָלָה)。喜びの叫びの中を。
主は行かれる。角笛の音の中を。
6 ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。
ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。
7 まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。
8 神は国々(ゴーイム:גּוֹיִם)を統べ治めておられる(マーラフ:מָלַךְの完了形)。
神はその聖なる王座に着いておられる。
9 国々の民(アンミーム: עַמִּים)の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに 地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。

(2) 「唇が汚れていること」と「主を見たこと」とは同義

●ここでは、すべての国々の民が、もろもろの国民が、国々が、アブラハムの神の民として、イスラエルの残りの者に接ぎ木されています。ところが、「全地の王」がこのように地を治める前に、イザヤは「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」と言ったのです。「ああ、私は滅んでしまう」の直訳は、「わざわいだ、私は滅ぼされる」です。「終わる、滅びる」を意味する「ダーマー」(דָּמָה)の受動態が使われています。「滅ぼされる」理由の第一は、「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」ことを示されたからです。これはイザヤと民が一体であることを示しています。理由の第二は、イザヤが「万軍の主である王をこの目で見た」からです。これらは別々のことのように思われますが、原文は理由を示す接続詞である「キー」(כִּי)が一つであることから、同義的パラレリズムと理解できます。つまり「唇が汚れていること」と「主を見たこと」とは同義だということです。つまり、ひとつの経験を別のことばで表現しているということです。 

●ところで、なにゆえに「唇」なのでしょうか。「唇の汚れた者」とはどのような意味なのでしょうか。「唇」を表すヘブル語の「セファーティーム」(שְׂפָתִים)は「口、舌、ことば」をも意味します。「唇」という身体の一器官だけではなく、そこから出て来ることばをも意味するのです。つまり「セファーティーム」はその人の心までも含む語彙なのです。従って、「唇の汚れた者」とは「心の汚れた者」を意味するのです。そのことを使徒ヤコブが鋭く教えています。

【新改訳2017】ヤコブの手紙3章6~10節
6 舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。
7 どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。
8 しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。
9 私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。
10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。

●イザヤが見たセラフィム、そしてイザヤが聞いたセラフィムの賛美は、イザヤをして自分の唇の汚れに気づかせたと推測されます。なぜイザヤはセラフィム(セラーフィーム:שְׂרָפִים)を知っていたのでしょうか。この語の語源は「燃える」を意味する「サーラフ」(שָׂרַף)です。それが名詞になると「へび、まむし」、および御使いの「セラフィム」になります。また興味深いことに、ウジヤ王が神殿で「香をたく」ことで、神のさばきを招いてツァラアトになり、その汚れのゆえに王の座から身を退くことを余儀なくされました。「香をたくこと」が「サーラフ」(שָׂרַף)の女性名詞「セレーファー」(שְׂרֵפָה)なのです。イザヤが「セラフィム」の存在と、彼らが神を「聖なる」(カードーシュ:קָדוֹשׁ)と三度も賛美している神の「聖」に触れたことによって、自分の「汚れ」に気づかされたことは十分に考えられます。

●そんなイザヤのもとにセラフィムのひとりが飛んで来ます。その手には祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があり、それをイザヤの口に触れさせて言います。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」と。ここに終わりの日を示す「見よ(ヒンネー:הִנֵּה)」があります。イザヤは「イスラエルの残りの者」の型です。イザヤ個人のみならず「イスラエルの残りの者」の(アーヴォーン:עָווֹן)も取り除かれ、(ハッター:חַטָּא)も赦されることが重層的に預言されているのです。

●「咎を取り除く」の「取り除く」は「スール」(סוּר)で、初出は創世記8章13節。「六百一年目の第一の月の一日に、水は地の上から干上がった。ノアが箱舟の覆いを取り払って眺めると、見よ、地の面は乾いていた」の「覆いを取り払って」に使われています。覆いが取り払われることで地が回復されたことを意味します。また「罪を赦された」の「赦された」は「カーファル」(כָּפַר)で、初出は創世記6章14節。「・・箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい」の「塗る」を意味します。塗ることでさばきの水が入ってこないことが「カーファル」です。そこから「覆う、なだめる、あがなう」の意が派生しています。罪が赦されるのは、イェシュアの血によって覆われるからです。イスラエルの民とエルサレムについての神の計画を、ダニエルが預言しています。そこでも「カーファル」(כָּפַר)が「咎の宥めを行い」で使われています。

【新改訳2017】ダニエル書 9章24節
あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。それは、背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うためである。

●ダニエルが預言した「七十週」とは、「終わりの日」の最後の一週(七年間)のことです。七年間の患難時代は前半(マタイ24:4~14)と後半(同24:15~31)に分かれますが、後者の三年半の期間は「産みの苦しみ」「大患難」とも呼ばれます。七年間の患難時代が置かれているその目的は、神の民であるイスラエルが最終的に神に立ち返るためであり、どうしても必要な産みの苦しみなのです。それは「背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い(カーファル: כָּפַר)、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うため」です。

●旧約聖書においては、神の民であるイスラエルとユダの民、および娘シオンであるエルサレムの「さばきと回復」が繰り返し預言されています。ところが聖書を読んでも、私たちはそのことの重要性(重大性)に気づきません。それは置換神学の弊害によるものです。イスラエルとか、ユダということばが聖書の中に出て来ると、それをすべて教会、あるいは自分に置き換えて読んでしまうからです。ここから脱出するのは決して容易なことではありません。置換神学は神のご計画を見えなくしてしまいます。キリストの再臨とその後に来る千年王国の到来が、置換神学においては意味のないもの、明後日の事柄と見なされてしまうのです。それゆえイザヤの問いかけが意味を持ってくるのです。

2. 『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』

【新改訳2017】イザヤ書6章8~10節
8 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
9 すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」

●咎が取り除かれ、罪を赦されたイザヤは、天からの主の声を聞きます。その声の内容は「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」というものでした。イザヤはすかさず「ここに私がおります。私を遣わしてください」と答えます。しかしそれはこの派遣がいかに困難なものであるか、それを十分に知った上での応答ではありませんでした。主の派遣の目的は、私たちの思いとは全く異なる性格を持っていました。それはイザヤの語るべきメッセージが、民の心を頑なにする内容であったからです。いわば何ら生産性のない働きをするのです。多くの人々を神の救いに導くための働きではなく、むしろ神の救いから遠ざける働きです。神からのメッセージを語れば語るほど、人々の心は頑なになり、神から離れて行くという務めなのです。そんなこととはつゆ知らず、イザヤは「ここに私がおります」と言ってしまうのです。

●イザヤ書の注解者である鍋谷堯爾(ぎょうじ)氏は「イザヤの召命の記録を読み、感激して献身の生涯に入った人は非常に多い。しかし一方において、この6章ほど誤解されたまま読まれている章も少ないのではなかろうか。それは、数節が断片的に読まれて、統一的な読み方がなされていないためである。」と書いておられます(「新聖書注解 旧約3」、いのちのことば社、527頁)。おそらくそれは、6章8節にある主と、主の声を聞いたイザヤとのやり取りのことばだけを知って献身しようとすることを意味しているのだと思われます。

●神の真意を知らされたイザヤは「いつまでですか」と問いかけます。それに対する神の答えは意外なものでした。

【新改訳2017】イザヤ書6章11~13節
11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。
12 主が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。
13 そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。
しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔(すえ)。」
※「裔」とは「種」(ゼラ:זֶרַע)

●「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる」という預言は、バビロン捕囚を想起させます。また、「そこには、なお十分の一が残る」はバビロンから帰還する者がいることをも想起させます。しかしやがては「それさえも焼き払われる」とは、終わりの日に神の民にふりかかる未曾有の苦難(大患難)を意味します。テレビンや樫の木のように大きな木が切り倒されて焼き払われるとは、神の民(ユダヤ人)の多くが滅びることを意味しています。しかしその中に「切り株」(マツェヴェット:מַצֶבֶת)、すなわち「聖なる裔(すえ)」(ゼラ・コーデシュ:זֶרַע קֹדֶשׁ)が残るのです。それが「イスラエルの残りの者」です。その時まで、神の民であるイスラエルの心は頑ななままだということなのです。神の子イェシュアが来られて、死と復活を通し「いのちを与える霊」となって人の霊を回復されるまではどうすることもできないのですが、そのときでさえも心頑なにして、神に立ち返ろうとしません。たとえ、神のねんごろな恵みを受けたとしても、彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもありません。イザヤ書5章に「愛の歌」があります。

【新改訳2017】イザヤ書5章1~6節
1 「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。
2 はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
3 今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしわがぶどう畑との間をさばけ。
4 わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。
5 さあ、今度はわたしあなたがたに知らせよう。わたしが、わがぶどう畑に対してすることを。わたしはその垣を取り払い、荒れすたれるに任せ、その石垣を崩して、踏みつけられるままにする。
6 わたしはこれを滅びるままにしておく。枝は下ろされず、草は刈られず、茨やおどろが生い茂る。わたしは雨雲に命じて、この上に雨を降らせないようにする。」

●聖書を読む時、人称の同定(だれのことを指しているのか)はとても重要です。これは単なる国語力のレベルと思ってはなりません。神のご計画を知っていないと、人称を同定することは難しいのです。人称を正しく理解することと、神のご計画に対する理解は密接な関係にあります。では1節の「わたし」「わが」、そして「愛する者」とは誰のことでしょうか。1節の「わたし」「わが」とは預言者イザヤのことで、「愛する者」とは「主」のことです。そしてその(愛する者の)「ぶどう畑」(ケレム:כֶּרֶם)とは、神の民イスラエル(ユダの民)のことです。つまり、この歌は「わが愛する者(主)のぶどう畑(イスラエルの民)に対する愛の歌」を預言者イザヤが歌うという設定になっているのです。この「愛の歌」の前半は希望の歌ですが、後半(2節後半から)は失望の歌となっています。ところで、3節からは「わたし」「わが」は「主」に変り、3~6節がぶどう畑を持つ「」のことばとなっています。新改訳では1~6節までを「」で括っていますが、実は原文には「」が一切なく、中澤洽樹氏は分かりやすく3~6節を括って訳しています。

●「ぶどう畑」は実に手がかかるようです。そのことを示唆する動詞の語彙が重ねられています。これはまさにぶどう畑を造る手順の「恩寵用語」です。

①「掘り起こす」(アーザク:עָזַק) 
②「石を取り除く」(サーカル:סָקַר) 
③「植える」(ナータ:נָטַע) 
④「(やぐらを)立てる」(バーナー:בָּנָה) 
⑤「(石を削って)掘る」(ハーツェーヴ:חָצֵב) 
⑥「(神のご計画の実現を)心待ちにする」(カーヴァー:קָוָה)

●逆に「失望用語」は「見捨てる」ことを表す語彙群となっています。エルサレム近郊は石の多いところで、その石を取り除くことだけでも大変なことです。しかしそこを耕してぶどう園にし、見張りの塔(ミグダール:מִגְדָּל)を建て、実を潰すための石を削って作った「踏み場」を用意して楽しみにして待っていたのです。ところが、主の大いなる期待にもかかわらず、「酸いぶどう」ができてしまったのです。「酸いぶどう」と訳されたことばは「酸っぱいぶどう」という意味ではなく、「腐ったぶどう」という意味です。原語は複数形で「べウシーム」(בְּאֻשִׁים)です。その語源である動詞の「バーアシュ」(בָּאַשׁ)は「憎まれる、異臭を放つ」という意味です。かつてエジプトに対する神のさばきとして、死んだ魚のためにナイル川の水は臭くて飲めなかったとあります(出7:21)。また蛙が死んで地は悪臭で満ちたともあります(出8:14)。出エジプトした神の民が荒野でマナを神から与えられますが、多く取ったマナは翌日には虫がわいて臭くなったとあります(出16:20)。このように「酸いぶどう」は「悪臭を放つぶどう」であったということです。それは「良い」「甘い」「特選」のぶどうがなるのを期待して待っていた主をどんなに失望させたことでしょうか。無理もありません。イスラエルの民は神の恵みに対して、それに応じる能力が自分たちにないということを認識できていなかったからです。そのためイェシュアは来られて、次のように語られました。

【新改訳2017】マタイ5章3節
「心の貧しい者(複)は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
原文=「幸いなのは霊の貧しい者たち。なぜなら、天の御国はその人たちのものだから。」

●「霊の貧しい者」とは、神を理解することにおいて「貧しい者」「極貧の者」という意味です。へブル語で「貧しい者」を「アーニー」(עָנִי)、「極貧の者」を「エヴヨーン」(אֱבְיוֹן)で表します。旧約ではこれらのことばはワンセットで使われ、新改訳2017では、前者を「苦しむ者」、後者を「貧しい者」と訳しています。それは詩篇(9:18, 12:5, 35:10, 37:14, 40:17, 70:5, 72:4,12)やイザヤ書(29:19, 32:7, 41:17)に多く使われています。彼らは単に社会的・経済的に「貧しい」「極貧」という意味で語られているのではなく、また心の状態や精神的な意味を言っているのでもなく、霊の状態を言っているのです。主はそのような者を見過ごすことはされません。ただそのことが隠されているのです。霊の貧しさを自覚できる者こそが幸いなのです。なぜなら、そこに主がかかわっておられるからです。実際どういう幸いなのかといえば、神の霊(イェシュアの霊)によって真の「悔い改め」がもたらされるという幸いです。「悔い改め」は私たちの努力やたましいの覚醒によるものではなく、ただ神に立ち返って、イェシュアの中へと入ることによってもたらされるものです。そのような者こそ「霊の貧しい者」であり、「最も小さな者」であり、そして「正しい者」なのです。そのように導かれることが神のご計画とみこころなのですが、イェシュアはそのことを隠して語っておられるのです。「霊の貧しい者」=「最も小さな者」=「正しい者」こそが、永遠のいのちに与るのです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14~15)とあります。イスラエルの民の中で、民族的に「人の子にあって永遠のいのちを持つ」のは、「イスラエルの残りの者」なのです。これはいまだ立ち上がっていません。彼らが立ち上がって来るのはこれからのことなのです。エックレーシアはこの「イスラエルの残りの者」に接ぎ木される存在です。ですから、この神のご計画を聖書から明確に理解する必要があるのです。

●イザヤの召命は強制的なものではありませんでした。あくまでも任意です。イザヤは自ら主の願いに答えて「私がおります。私を遣わしてください」と答えたのです。これから終わりの時代に向かっていく時に、人々のニーズのために、人々のたましいを豊かにするために、人々から受け入れられるメッセージを語ることではなく、神のご計画とみこころ、みむねと目的を明確に語って行く者が必要とされるのです。それは人々にとって、心地よいメッセージではなく、むしろ聞く人々の心を頑なにするメッセージなのです。「この務めにふさわしい者はだれか」と主は語られますが、そこに自分の生涯を献げられるかどうかが問われているのです。

ベアハリート (深い眠りの霊を注がれる)

●主は、イスラエルから神を求める幸いな「苦しむ者」「貧しい者」を起こすために、深い眠りの霊を注がれるのです。「深い眠りの霊」とは神によって「(霊の)目が閉ざされる」ことです。そこから真の「聖なる裔(すえ)」である者が立ち上がって来るのです。イザヤ書29章は地の中心であるエルサレムに呼びかけています。エルサレムを「アリエル」(アリーエール:אֲרִיאֵל)と呼んでいます。アリエルとは「祭壇の炉」のことで、燃えた炭火を溜める炉床を言います。つまりエルサレムが終わりの日に、反キリストの軍勢によって「祭壇の炉」のようになるという預言が語られています(29:1~8)。にもかかわらず、そのことを信じられないのは、神が預言者や先見者たちの上に「深い眠りの霊を注がれる」からだとしています。

【新改訳2017】イザヤ書29章9~14節
9 驚き、たじろげ。目を閉ざされて、盲目となれ。彼らは酔うが、ぶどう酒のせいではない。ふらつくが、強い酒のせいではない。
10 主はあなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、預言者というあなたがたの目を閉ざし、先見者というあなたがたの頭をおおわれた。
11 そのため、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。読み書きのできる人に渡して、「どうか、これを読んでください」と言っても、「それは封じられているから読めない」と言い、
12 また、読み書きのできない人にその書物を渡して、「どうか、これを読んでください」と言っても、「私は読み書きができない」と答えるであろう。
13 主は言われた。「それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。
彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである。
14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び、不思議なこと、驚くべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される(=役立たずになる)。」

●9節の「驚き、たじろげ」という部分を、中澤洽樹氏は「腰をぬかすほど驚け」と訳しています。霊の目が見えなくなることは「腰を抜かすほどの驚き」、大変な事態に陥ったということを表そうとしているのです。10~11節の「あなたがた」とは神のことばを預かる預言者、および先見者たちのことです。彼らが神のことばに対して心を閉ざし、無視し、拒み続けた結果、「深い眠りの霊」が注がれて神のことばが封じられてしまうことで、恐ろしい結果を招くのです。イザヤが預言者としての召命を受けたとき、人々が神のことばを聞けば聞くほど心を頑なにして耳と目を閉ざすのは、「深い眠りの霊」が注がれて神のことばが封じられてしまうからです。イザヤは神の語られることを正しく理解し、怯むことなく神のご計画とみこころ、みむねと目的を語り、書き記したのです。「王なる祭司」とされた教会もそのことに殉じる覚悟が求められているのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.5.25
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