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恩寵用語Ps(2)

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詩3篇(2)「ささえる」 סָמַךְ サーマフ

〔カテゴリー防衛〕

5節「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。」(新改訳)
5節「神にささえられ、私は伏して眠り、また目をさます」(典礼訳)

Keyword; 「支える」 sustain,  up hold,
3:5/37:17, 24/51:12/54:4/111:8/119:116/145:14

  • 「ささえてくださる」と訳された「サーマフ」(סָמַךְ)は、旧約で48回、詩篇では11回使われています。詩篇特愛の恩寵用語です。神の支えと私たちの安眠は密接な関係があります。今日多くの者たちがさまざまなストレス、将来の不安、人間関係における恐れなどによる不眠で悩まされています。ダビデのように、自分の座を追われ、先の不安の中に陥れられても、彼が「身を横たえて、眠り、また、目を覚ます」という驚くべき安眠の祝福は、ひとえに神が彼を支えておられたからであり、ダビデはそのことを信じていたからに他なりません。
  • 御子イエスが暴風の中でも舟の中で眠っておられたのは、御父が自分を支えておられるという絶対的な信頼によるものです。弟子たちは水の上では舟が唯一の支えですが、その舟に水が入ってきたとき、舟が沈没してしまうかもしれないという死の恐れにおびえました。私たちは支えなしに生きることはできません。しかし、私たちの本当の支えはいったい何なのか。私たちの人生においてそのことを深く問われる試みを経験することがあるかもしれません。しかし、主を支えとする者は幸いです。
  • 詩篇には、いついかなるときにも神の確かな支え(サポート)があることを教えています。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(37:23~24)「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」(54:4)「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。」(145:14 )
  • モーセの訣別説教の中に「永遠の腕が下に」という表現があります(申命記33:27)。イスラエルの愛称である「エシュルンよ」と呼びかける神は、ご自身の民の内に臨在されるばかりか、天を駆け巡って彼らを助けます。民はその神を自らの「住む家」として持ち、「永遠の御腕が下に」あるという確かな支えによって守られています。この神の支えがあることを、私たちは朝ごとに心の中にしっかりと刻む必要があります。
  • 「サーマフ」(סָמַךְ)の類義語は、以下の通りです。

    (1)「サーアド」(סָעַד)・・旧約12回、詩篇6回。18:35/20:2/41:3/44:18/104:15/119:17
    (2)「ウード」(עוּד)・・旧約44回、詩篇6回。146:9/147:6/ etc
    (3)「クール」(כּוּל)・・旧約38回、詩篇2回。55:22 he will sustain(NIV) 。新改訳では「主が心配してくださる」と訳されています。



●「サーマフ」は「手を置くこと」(按手)と関係があります。「サーマフ」の初出箇所である創世記27章節では、ヤコブが父イサクから按手を受けたあとでエソウに対しこう言っています。

【新改訳2017】創 27:37
イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、すべての兄弟を彼にしもべとして与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした(סָמַךְ)。わが子よ、おまえのためには、いったい何ができるだろうか。」

●「養うようにした」と訳されていますが、それはイサクがヤコブに対して按手したことによります。サーマフには「手を置く」という意味があるのです。ヤコブは父イサクに与えられている長子の権利とその祝福を受けるために、父から按手されました。按手は、按手する者と按手される者とが「一つになる」(結合する)ことを意味します。ただし、この按手は教会における教職者に対する按手礼式のことではありません。クリスチャンすべて洗礼を受けたと同時に、主からの按手を受けているのです。この教えは初歩の教えですが、この霊的感覚を養う必要があるのです。

●幕屋で神にいけにえをささげるときに、ささげる者といけにえとなる動物とが一つになるために、その動物の頭に手を置きます(出29:10, 15, 19、レビ1:4等)。この「手を置く」ことが「按手する」という意味です。このことによって、自分とささげ物となる動物が一つになることだけでなく、神との交わりが可能となるのです。この神との結合と交わりが「サーマフ」の意味です。このかかわりの感覚を私たちはいつも持っている必要があります。私は主が手を置いてくださった者である(「主が支えてくださる」)という霊的感覚こそが、たとえどんな敵に囲まれていたとしても、ダビデをして安眠をもたらした秘訣なのです。

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