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恩寵用語Ps24

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詩24篇「入って来る」 בּוֹא ボー

〔カテゴリー統治〕

7節
「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の扉よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。」

Keyword; 「入る」 come in

  • 神の恩寵は、神が私たちとかかわるかかわり方にあります。それは、決して強制的ではなく、あくまでも、私たちの自発性が重んじられるという点においてみられる恩寵です。まさに、自由意思にこそ人間の尊厳性があります。
  • 「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の扉よ。上がれ。」という表現は、私たちが神に対して自らの心を開くようにとの命令(うながし)です。もし、私たちの心を開くならば、栄光に輝く王が私たちのうちに入ってきてくださり、深くかかわってくださいます。
  • 詩100篇では、主を礼拝する者に向かって、「来たれ(בּוֹא)、入れ(בּוֹא)」と命じていますが、詩24篇では、王である神が人の心の中に入るために、「門よ、おまえのこうべを上げよ(lift up)」と促しています。モファット訳では、Welcome the glorious King!
  • ヨハネの黙示録3章20節に、主イエスが「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼の所にはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。」と語っておられます。ユダヤにおいて「食事をともにする」ということは最も親しいかかわりを表わします。イエスは自分を裏切った弟子たちのために、朝食(炭火で焼いた魚とパン)を備えて岸辺で待っておられました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」ヨハネの福音書21章参照。それはイエスが弟子たちのすべての罪を赦して、かかわりを持とうとして歓迎しておられる姿です。
  • 「来る」「入る」も同じくボー(בּוֹא)で表わされますが、礼拝用語にもなれば、恩寵用語にもなります。そして深いかかわりを表わす動詞です。つまり、神が私たちと深くかかわることを「神が私のところに入る」と表現しています。
  • ところで、詩24篇の構造を概観してみると、1~2節は、全世界のその中に住む(存在する)ものは主のものであるという宣言です。また、すべてのものはかかわりをもって存在しています。かかわりになしに存在し得るものは何一つありません。海、地、川もすべてがつながっています。そのような世界を創造された主の前に立ち得るのかはだれかという問いが、3~6節です。
  • 結論を言うならば、ヤコブという人物でくくられる神を求める者の一族、主の御顔を慕い求める人々です。しかし、その者たちでさえも、彼らが神に対して、心の「門」、心の「扉」を開くことなくしては、決して神とて入ることーすなわち親しいかかわりを持つことーができないのです。ですから、「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ」と命じられています。
  • ちなみにこの詩24篇では、「上げる」(「ナーサー」נָשָׂא)という動詞が6回(4, 5, 7, 7, 9, 9)も使われています。すべて神に対する人間側の行為を表わす動詞です。

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