恩寵用語Ps32(1)
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詩32篇(1)「おおう」 כָּסָה カーサー
〔カテゴリー救出〕
7節「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた(כָּסָה)人は。幸いなことよ、主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は。」
Keyword; 「おおう、覆い隠す」 cover, hide
32:1/ 55:5/85:2
- この詩32篇1~2節には罪に関係することばが三つと、それに対処する神の三つの動詞が記されています。
(1)「ペシャ」(פֶּשַׁע)・・「そむき」と訳され、神への反逆であることを最も強く表現することばで、神の律法の教えを破ること。
(2)「ハッター」(חַטָּא)・・「罪」と訳され、本来は「的をはずす、道を踏み外す」の意。神の定められた正規の道を踏み外し、人生の目的を失うこと。
(3)「アーヴォーン」(עָוֹן)・・「咎」と訳され、本来は「ゆがむ」の意で、不義とも訳される。
- 「そむき」(「ペシャ」פֶּשַׁע)、「罪」(「ハッター」חַטָּא)、「咎」(「アーヴォーン」עָוֹן)に対応して、それぞれ、「赦す」(「ナーサー」נָשָׂא)、「おおう、覆い隠す」(「カーサー」כָּסָה)、「認めない、数え上げない」(否定を伴う「ハーシャヴ」חָשַׁב)といった恩寵の動詞が見られます。ここでは「覆う、覆い隠す」という動詞に注目してみたいと思います。この動詞は詩32篇ではじめて登場する動詞です。口語訳は「おおい消す」と訳しています。人間が犯したすべての罪を神ご自身が覆ってくださるのです。人は自分の罪をどこまでも覆い隠すものです(原罪)。しかし神が人の罪を覆い隠すとき、それは赦し(愛)につながります。
- ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテは自分のたちの父であるノアが酒に酔って失態を演じたとき、ハムはそれを他の兄弟たちに言いふらしました。しかし、セムとヤペテは着物をとって、しかも後ろ向きに歩いて行って父の裸を覆いました。ここにも同じく「おおう」という「カーサー」(כָּסָה)が使われています。セムとヤペテは父から祝福されましたが、父の失態を人に告げたハムは呪いを宣言されてしまいました。
- 箴言17章9節には「そむきの罪をおおう者は愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」(新改訳) /「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」(口語訳)では「思いやりのある人は人のまちがいを水に流し、いつまでもこだわる者は親友までも失います。」(LB訳)とあります。「おおう」ことは「ゆるす」こと、「水に流す」ことと同義であり、「愛を追い求める者」のしるしであることがわかります。
- 新約では、自分の罪を赦された使徒ペテロが「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」と述べています(Ⅰペテロ4章8節)。また、ヤコブも「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(5:20)と述べています。
- 旧約において神と人が交わるための「あかしの天幕」、「会見の幕屋」には絶えず神の臨在の象徴として目に見える「雲」がおおっていました。ここの「おおう」ということばも「カーサー」(כָּסָה)です。それは神の民が礼拝を中心するとき、常に神が民を導くお方であることを意味しています。