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恩寵用語Ps70

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詩70篇 「大いなるものとする」 גָּדַל ガーダル

〔カテゴリー愛顧〕

4b節「あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう』といつも言いますように。」(新改訳)

Keyword; 「大いなるものとする」―「あがめる」という礼拝用語の背景にある恩寵としてー make great,

(1) 詩70篇と詩40篇13~17節との比較

  • 詩70篇は、詩40篇13~17節とほとんど内容は同じです。しかしなぜ同じ内容のものが置かれているのかが問題です。似ているように見えるだけで、よく比べてみるなら微妙に違っています。たとえば、神が主になり、主が神になって表現されています。しかしこの程度の違いならばそれほど問題はありません。その他の違いが重要です。なぜなら、それによって強調点が異なってくるからです。詩40篇にあって詩70篇にないもの。逆に詩70篇にあって、詩40篇にはないものがあります。比べてみましょう。
  • 詩40篇13節「主よ。どうかみこころによって、私を救い出し、主よ、急いで、私を助けてください。」 詩70篇1節では「神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。」となっています。詩70篇には詩40篇にある「どうかみこころによって」という部分がありません。この部分のヘブル語はラーツァー(רָצָה)で、好意を示すことばで、受け入れる、親しくする、走り寄る、喜ぶ、といった意味です。
  • 詩40篇17節「私は悩む者、貧しい者です。主よ。、私を顧みてください。あなたはわたしの助け、私を救い出す方。わが神、遅れないでください。」とあります。詩70篇5節では「私を顧みてください」と部分がなく、代わりに、「わたしのところに急いでください。」となっています。「顧みる」と訳された恩寵用語はハーシャヴ(חָשַׁב)で、自分のことを考え、心配りしてくれ、ねんごろに思う、といった意味です。
  • 詩40篇にみられるラーツァー(רָצָה)にしても、ハーシャヴ(חָשַׁב)にしても、神の親しさがこめられた動詞です。しかし詩70篇にはそうした親愛を示す動詞がなく、「急いで」ということばが強調されています。つまり、詩70篇では自分を顧みてくださいといった悠長な態度ではなく、「急いでください」と神の助けを緊急に求めています。、この「急いで」という緊迫性、切迫性こそが、詩70篇の大きな特徴であると言えると思います。
  • ちなみに、「急ぐ」ということばは、フーシュ(חוּשׁ)が使われています。旧約では17回、詩篇では9回、-そのうち7回は「急いで私を助けてください」という嘆願、命令形で使われています(22:19/38:22/40:13/70:1, 5/71:12/141:1)。

(2) 「早急さ」と詩70篇4節との関係

  • 「苦しいときの神頼み」ということばがあります。私たちは「苦しいこと」がないと神を求めようとしない利己的な性格を持っています。しかも求める時には早急な神頼みです。詩70篇もそのような性急な祈りかといえば、決してそうではありません。むしろ身勝手な祈りを否定する表現が4節にあります。「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう』といつも言いますように。」という部分です。同義的並行法で書かれたこの部分が、単なる、早急で、身勝手な祈りを排しています。
  • 「あがめよう」と訳されたガーダル(גָּדַל)は本来、「大きくする」という意味です。これが神の恩寵として使われる場合には、「大いなる者とする」という意味になります。「神をあがめよう」(新改訳、新共同訳)、「大いなれ、神」(岩波訳)、「ヤーウェは大いなるかな」(関根訳)、「神は大いなる者」(フランシスコ会訳)、「神は偉大な方」(典礼訳)、「神は偉大なもの」(バルバロ訳)
  • この言葉が聖書で最初に登場するのは、創世記12章のアブラハムの召命にある「わたしはあなたを大いなる国民として、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」(2節)とあります。逆に、礼拝用語として使われる場合には、神の名を「大いなるものとする」ということで「あがめる」(新改訳、新共同訳)と訳されます。
  • 「あがめる」という礼拝用語の背景には、神によって高く上げられ、大いなるものとされるという祝福の恩寵があってはじめて成り立つことができます。
  • この「ガーダル」に対応するギリシヤ語は「メガリューノー」μεγαλύνωです。ルカ1:46「わがたましいは主をあがめμεγαλύνω」、ピリピ1:20「・・生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられるμεγαλύνωことである。」(口語訳)などで使われています。日本語では同じ「あがめる」ということばでも、原語では異なる動詞が使われ、意味合いも違いがあることが分かります。
  • 旧約聖書で「あがめる」と訳されているもう一つの言葉は「ルーム」(רוּם)です。これは詩篇特愛用で、本来的には、神が人を引き上げる、高く上げるという恩寵用語ですが、礼拝用語として使われる場合には、神を高く上げるということで、「あがめる」と訳されます。新改訳の詩篇では「ルーム」(רוּם)が「あがめる」と訳されていのは14回ほどあります。
  • もうひとつ、「ルーム」(רוּם)の類義語で「サーガヴ」(שָׂגַב)があります。「高く上げる」(詩篇20:1/59:1/69:29等)という恩寵用語ですが、礼拝用語として、詩篇148:13では「主の御名があがめられ」と訳されています。
  • 詩70篇の作者は、緊急の祈りの中にも、「いつも」、神をあがめる生活をしていたことが分かります。このような生き方は一朝一夕にできません。常日頃から、いつも意識して、神とともに生きることを選んだ者にのみできる生き方であると信じます。
  • 「神を慕い求める人々」、「主を愛する人々」とは、「みな」(例外なく)、「いつも」、神にあって楽しみ、喜ぶー享楽的な喜びではなく、自分がどこまでも愛されているという存在論的な恩寵―ように裏打ちされて、神をあがめる(神を偉大にする)ことのできる者たちと言えます。

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