****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

慰めのメッセージ

10. 慰めのメッセージ

ナハムー・ナハムー・アンミーנַחֲמוּ נַחֲמוּ עַמִּי

【聖書箇所】イザヤ書40章1~31節

ベレーシート

●イザヤ書1~39章の「心かたくなにするメッセージ」から、40~66章の「慰めのメッセージ」へと変わります。これは旧約(39巻)と新約(27巻)の構成と全く同じです。イザヤ書の前者(1~39章)の「心かたくなにするメッセージ」の中にも、神のさばきと回復(慰め)の預言がコインの裏表のように常に語られていました。しかし後者(40~66章)の「慰めのメッセージ」では、ご自身の民に対する神の熱い思いが語られるだけでなく、それがどのようにして実現するのか、その担い手としての「主のしもべ」であるメシアが紹介され、単なるバビロン捕囚からの解放を超えた神の壮大な終末的救いのご計画が預言されています。

●多くの注解者が、イザヤ書40章をバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰るユダヤ人のために語られたとしています。しかしその内容はそれ以上のことが含まれています。ペルシアの王キュロスによる帰還は、終わりの日の大患難の時に、霊の目が開かれて悔い改めた「イスラエルの残りの者」が世界各地からエルサレムに帰還することの型です。40章はメシアの再臨の直前に起こる出来事が預言されているのです。

●今回の「慰めのメッセージ」では、記されている人称の設定にスポットを当て、誰が誰に対して語っているのかという点に注目したいと思います。翻訳文では人称について明確な情報を得ることができません。ヘブル語原典から人称についての情報を確認してみたいと思いますが、人称の同定はそう簡単ではありません。

【新改訳2017】イザヤ書40章1~2節
1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」

●「わたしの民」と「エルサレム」は同義です。「これ」「その」「その」「その」の指示代名詞は「わたしの民」です。では「あなたがた」とは誰なのでしょうか。

1. 人称の同定

(1) 「わたしの民」

●イザヤ章40章1節にある「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」にある「わたしの民」とは誰なのか、イザヤだけでなく、ほかの預言者たちも、この「わたしの民」について言及しています。

①【新改訳2017】イザヤ書 1章3節
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶を知っている。
しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

②【新改訳2017】イザヤ書 63章8節
主は言われた。「まことに、彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして主は彼らの救い主になられた。

③【新改訳2017】イザヤ書 65章19節
わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。

●①の「わたしの民」は主を知らない、悟らない者でしたが、40章以降の「わたしの民」は「偽りのない子たち」と呼ばれます。主が最も嫌うことは「偽り」です。悪魔は偽り者であり、偽りの父だとイェシュアは語っています(ヨハネ8:44)。②③の「わたしの民」はその悪魔の支配(ストイケイア)から救われた者たちです。しかも「エルサレム」と「わたしの民」は同義で密接に結びついています。

④【新改訳2017】ゼカリヤ書 8章7~8節
7 万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の沈む地から救い、
8 彼らを連れ帰り、エルサレムのただ中に住まわせる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」

⑤【新改訳2017】ゼカリヤ書13章8~9節
8 全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」

●④での「わたしの民」は全地(日の出る地と日の沈む地)から連れ帰らされ、エルサレムのただ中に住まわされます。⑤での「わたしの民」とは大患難の未曾有の苦難をくぐった「残りの者」で、それはユダヤ人の中の「三分の一」です。このように、イザヤ書40章1節の「わたしの民」とは、単にイスラエルの民というのではなく、明らかに、「イスラエルの残りの者」のことです。ということは、40章以降のメッセージは「イスラエルの残りの者」に向けて語られたものであることが分かります。


(2) 「あなたがた」

●誰が、誰に、誰を「慰めよ」と命じているのかと言えば、「あなたがたの神」が、「あなたがた」に、「わたしの民」(主の民)を、「あなたがたは慰めよ」と命じているのです。そしてさらに、この命令を「神は仰せられる」と語っているのは誰かと言えば、ここでは「人称なき存在」(聖霊)なのです。イザヤ章40章1~3節にある五つの命令形、つまり①「慰めよ」②「語りかけよ」③「呼びかけよ」④「(主の道を)用意せよ」⑤「(大路を)まっすぐにせよ」は、すべて二人称男性複数形で「あなたがた」に対する命令です。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と命じられている「あなたがた」とは、一体誰なのでしょうか。

●LXX訳(秦訳)の1節は「慰めるのだ、慰めるのだわが民を」ですが、2節は「祭司たちよ、おまえたちはエルサレムの心に語りかけ、彼女(エルサレム)を慰めるのだ。」となっています。興味深いことは、ここで二人称男性複数形が「祭司たち」と訳されていることです。ヘブル語原文ではそれが誰であるかについては沈黙しています。しかし、さらに、「ナハムー・ナハムー」(慰めよ、慰めよ)を、強調の反復修辞法というだけでなく、「二人の証人」に対する呼びかけとも捉えることができます。なぜなら、終わりの日に「イスラエルの残りの者」に大きな影響を与えることが可能な存在といえば、エックレーシアでなく(すでに携挙されているため)、神の霊を除いて、「二人の証人」しかいないからです。ヨハネの黙示録11章3節によれば、「わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する」とあります。彼らは千二百六十日間(患難時代前半の三年半)「預言する」ことが許されるのです。

●預言の働きをするためには、二人が神の「祭司」でなければなりません。そうであるなら、「二人の証人」が最後の患難時代において「わたしの民」を「慰める」ことは十分に可能なのです。この「二人の証人」が誰であるかについて聖書は明らかにしていません。しかしその働きを見るならば、モーセとエリヤと言える働きです。イザヤ書40章3節で、「二人の証人」は「荒野で叫ぶ者の声」とも「呼びかける声」とも呼ばれます。その「声」は単数です。単数とは「二人で一つの声(一つのメッセージ)」だからです。

●新改訳では「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ』」と訳していますが、聖書協会共同訳では「呼びかける声がする。『荒れ野に主の道を備えよ』」と訳されています。私も「荒野」という語彙を「主の道」に結びつけた方が良いように思います。なぜなら「二人の証人」の活動の舞台は、荒野ではなく、エルサレムだからです。2節の「エルサレムに優しく語りかけよ」、9節の「シオンに良い知らせを伝える者よ・・。エルサレムに良い知らせを伝える者よ」にある「良い知らせを伝える者」とは、エルサレムの「二人の証人」であることをより裏付けています。彼らの働きがエルサレムに限られていても、その影響は世界的であることが語られています。5節にある「このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る」がそうです(黙示録11:9参照)。このように、イザヤ書40章の預言は、終わりの日に「イスラエルの残りの者」に対して「二人の証人」によって語られる預言だと言えるのです。

2.「慰める」という語彙

●彼ら「二人の証人」が語るのは「悔い改めのメッセージ」ですが、それは「イスラエルの残りの者」にとっては「慰めのメッセージ」となるのです。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」で始まる「慰めのメッセージ」とは何でしょうか。「慰めのメッセージ」は「エルサレムの心に」対して語られなければなりません。新改訳では「エルサレムに優しく語りかけよ」と訳していますが、原文は「あなたがたはエルサレムの心に語り、彼女に呼びかけよ」となっています。「心」と訳される「レーヴ」(לֵב)は、日本語の「心」のように必ずしも感情や情緒を意味するものではありません。むしろ理解力を意味します。イザヤ書6章に「この民の心を肥え鈍らせ(=かたくなにし)、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。」(10節)とあるように、ヘブル語の「心」(レーヴ)の働きは、理解力や悟る力を意味しています。したがって「慰めよ」とは、決してセンチメンタルな呼びかけではなく、悟りが開かれること、理解力が与えられることを意味するのです。ですから、40章12節以降では、神が・・・な方であるのを知らないのか、聞いていないのかと「エルサレムの心」に問いかけているのです。

●1節の「慰める」が、9節では「良い知らせを伝える」に置き換えられます。動詞の「良い知らせを伝える」は「バーサル」(בָּשַׂר)です。慰めることは、良き知らせを伝えることと同義なのです。その良き知らせも、ある者にとっては良くても、ある者にとっては悪い知らせとなることは言うまでもありません。同様に「慰め」の動詞の「ナーハム」(נָחַם)は、「慰める」と「悔やむ」という意味を併せ持っています。両義性はヘブル語の特徴です。その初出箇所は以下です。

①【新改訳2017】創世記 5章29節
彼はその子をノアと名づけて言った。
「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」

②【新改訳2017】創世記6章6~7節
6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
7 そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

●「ナーハム」(נָחַם)は5章29節では「慰める」という意味であるのに対して、6章6~7節では「悔やむ」という意味です。6章2節以降に「神の子ら」(ヴェネー・ハーエローヒーム=בְנֵי־הָאֱלֹהִים=セツの子孫)は、カインの系列にある美しい娘たちとかかわりを持つようになり、神を信じない娘たちを妻とすることで彼女らの影響を受ける者となり、「その心に図ることがみな、いつも悪に傾く」ようになったとあります。祭司の体系の継続が困難となった状況を主は「悔やみ」、心を痛められたのです。「心を痛められた」と訳された「アーツァヴ」(עָצַב)は、苦しみと悲しみで心がいっぱいになることを意味します。しかしそうしたのろわれた地で、祭司の務めを担うセツの子孫の働きと手の労苦から慰めてくれる人物がノア(ノーアッハ:נֹחַ)だったのです。

●「ノアは主の心にかなっていた」(創6:8)とありますが、直訳は「ノアは主の目に恵み(חֵן/חָנַן)を見出した(マーツァー:מָצָאの完了形)」となっています。これはヘブル的慣用句であり、「ノアは主に受け入れられた」という意味です。新しい時代の祭司の務めは、このノアとその家族にゆだねられることになったのです。なぜなら、ノアは主に受け入れられたことで「神とともに歩んだ」からです。これは終わりの日に起こされる「イスラエルの残りの者」の予表(=型)なのです。「イスラエルの残りの者」も「恵み(חֵן)と嘆願(חֵןの複数形)の霊」が注がれることで、彼らは自発的・主体的に「王なるメシアとともに歩む」者となるのです。

●さらに「慰める」とはどういうことかを、イザヤ書から探ってみましょう。結論を先に言うと、「慰め」とは「救い」「回復」「再生」「報復」と同義であり、その動機は主の「あわれみ」(ハーナン:חָנַן)にあるのです。

①【新改訳2017】イザヤ書 49章13節
天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ

●ここでの「慰め」は「苦しむ者(アーニー:עָנִי)をあわれまれる(ラーハム:רָחַם)」ことだとしています。
「苦しむ者」とは「霊において苦しむ者」のことです。主のあわれみによって霊の目が開かれることで、これまでの苦しみは霊の目が見えないことにあったと知り、喜びの声をあげるようになるのです。

②【新改訳2017】イザヤ書51章3節
まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。

③【新改訳2017】イザヤ書52章8~9節
8 ・・・主がシオンに戻られるのを目の当たりにするからだ。
9 エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ

●ここでの「慰め」は「荒野をエデンのように」「エルサレムが贖われる」、すなわち回復されることです。

④【新改訳2017】イザヤ書61章1~2節
1 神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
2 主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者(アーヴェール:אָבֵל)を慰めるために。

⑤【新改訳2017】イザヤ書66章13 節
母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる

⑥【新改訳2017】イザヤ書66章14 節
あなたがたがこれを見るとき、その心は喜び、骨は若草のように生き返る。主の手はそのしもべたちに知られる。・・・

●癒やし、解放、釈放(赦免)、再生がもたらされ、またシオンという国が一瞬にして産まれ、溢れる流れのように栄光が現されるという「慰め」です。イザヤ書40章では、民の「咎」が償われ、民の「罪」に引き換ええて二倍のものを受けることができることを預言的完了形で表しています。「二倍のもの」とは、長子に与えられる特権であり、イスラエルの残りの者は神の長子となるのです。

●このように、「慰め」ということばは「救い」「回復」「報い」といった幅広い意味を持っています。イェシュアはこうした「主の慰めの全貌」を、以下のように言い表しました。

【新改訳2017】マタイの福音書5章3~12節
3 心(=霊)の貧しい者(複)は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
4 (嘆き)悲しむ者(複)は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5 柔和な者(複)は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
6 義に飢え渇く者(複)は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
7 あわれみ深い者(複)は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
8 心のきよい者(複)は幸いです。その人たちは神を見るからです。
9 平和をつくる者(複)は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。・・・

●イスラエルの残りの者は、御国においてこれらの幸いを与えられるのです。そのような彼らの霊こそ、イェシュアの言われる「良い地」(マタイ13:8)です。「良い地」とは、イェシュアの「いのちを与える霊(=いのちを創り出す霊)」と人の霊がミングリングされたものです。そこに種が蒔かれることで多くの実を結ぶのです。「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです」(マルコ4:20)とあります。「三十、六十、百」は「三、六、十」の倍数です。ヘブル語の三(ג)、六(ו)、十(י)を合わせると「ゴーイ」(גּוֹי)となり、この「ゴーイ」こそ「数えきれない大勢の異邦人」なのです(黙示7:9)。イスラエルの残りの者、つまり14万4千人の全イスラエルがこのゴーイを産むのです。

3. 牧者としての養育

【新改訳2017】イザヤ書 40章11節
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊(テラーイーム:טְלָאִים)を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊(アーロート:עָלוֹת)を優しく導く。

●神は神の民の咎と罪を赦すだけでなく、羊飼いのようにみことばをもって神の民としてふさわしく養育されます。いつくしみに満ちた愛の神の姿が示される、それが11節です。

●神は「子羊たち」(テラーイーム:טְלָאִים)を引き寄せ、懐に抱き、「乳を飲ませる羊」(アーロート:עָלוֹת)を優しく導かれます。「乳を飲ませる羊」とは、神のみことばを教える祭司たちのことで「イスラエルの残りの者」のことです。この養育によって、イスラエルの残りの者は最強の「王なる祭司」となり、イェシュアが伝えた御国の福音を「数えきれない大勢の異邦人」である「子羊」(テラーイーム:טְלָאִים)に伝えて救うのです(黙示録7章)。神の愛が、彼らを「飼い」「引き寄せ」「抱き」「導く」という一連の動詞の中に現されています。

4. 破格的な力の賦与

【新改訳2017】イザヤ書40章18節、21節、26節、28~31節
18 あなたがたは神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。
21 あなたがたは知らないのか聞いていないのか。初めから、告げられていなかったのか悟っていなかったのか。地の基のことを。
26 あなたがたは目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方はその万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも漏れるものはない。
28 あなたは知らないのか聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。
29 疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。
30 若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。
31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

●ここでは「知らないの」「聞いていないの」「告げられていなかったの」「悟っていなかったの」と、疑問詞の「ハロー」(הֲלוֹא)を用いながら、繰り返し、繰り返し問いかけています。「慰めのメッセージ」の最後は、破格的な力の賦与です。このことが語られる前に、神の創造的な力がいかんなく語られていきます。それが12節~26節にあります。そこでは神の創造性、全能性、無比性、至高性、無限性、無窮性、不変性、完全性、永遠性が語られています。

●この箇所で注目したいのは、「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」という部分です。実際にそんなことがあるでしょうか。常識的には無理です。ところが、神である主が力をもって来られ、その御腕で統べ治めるときになると、つまり御国においては可能なのです。聖書の信仰とは、信じられないことを信じることです。信仰の父であるアブラハムにまだ自分の子が与えられていないときに、主は彼を外に連れ出して言われました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる」と。またアブラハムのところに訪ねて来た三人の一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています」。すでにアブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていたのです。しかしこれを信じることが信仰なのです。実際、約束通りに彼らは子を得たのですが、御国では星の数ほどの子孫が完全に成就します。

●同様に、「主を待ち望む者(=イスラエルの残りの者)は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」という約束も御国において成就します。そもそも「死んで、葬られ、よみがえったキリストを信じる」ことが信仰であり、常識を超えた非常識な神の約束をそのまま信じることが真の信仰なのです。

●バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民は、「走っても力衰えず、歩いても疲れない」というような力は与えられていませんでした。事実、帰還したユダの周辺の人々から神殿建設に対する妨害が起こったり、自分たちの生活が苦しくなったりすることで、すぐにその気力は喪失しています。祭司エズラなどの指導者たちの呼びかけによって霊が奮い立たせられて、再び神殿建設に励みはしますが、31節で語られているような力は与えられていません。主を待ち望む者に与えられる力は、人の想像を越える力なのです。今ある力にプラスされるような力ではなく、全く異なる力、刷新された力が身を支配するのですから、「走っても力衰えず、歩いても疲れない」のです。

ベアハリート

●エックレーシアはどうなのでしょうか。私たちは携挙されて新しい復活のからだが与えられるので、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」のだと考えます。しかしイスラエルの残りの者は朽ちるからだでありつつも、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」のです。「新しく力を得」とありますが、原文には「新しい」ということばそれ自体はありません。ここでの「力」と訳された「ホーアッハ」(כֹחַ)は、神から与えられた「力、権力、能力、富」を意味しますが、そうした力は神のことばによるものです。それが賦与されるのは祭司の務めのためです。今ある力ではなく、これまでとは全く異なる力を意味します。それが「ハーラフ」(חָלַף)の使役形が意味することです。「ハーラフ」(חָלַף)は、着物を着替えるように取り換えてしまうという意味の語彙です。私たちの想像するような制限された力ではないゆえに、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」のです。

●若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れます。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができるのです。「鷲のように、翼を広げて上る」の「翼」とは「カーナーフ」(כָּנָף)で「神のことば」を象徴しています。ですから、翼のある鷲とは神のことばに仕える祭司の務めをする者たちのことです。イスラエルの残りの者は、生きたまま復活のからだをもたずに千年王国に流れ込みますが、そのような者が病気になることはほとんどありません。なぜなら神の印が与えられているからです。地には平和が訪れ、神の教えによって人々が愛し合って生きるようになるので、ほとんどストレスのない健康な身体を保つことになります。ですから「走っても力衰えず、歩いても疲れない」のです。それはまた「聖霊に満たされた姿」とも言えます。「聖霊に満たされる」というと、なにか特別な人の事を言っているように思われますが、御国の世界ではそれが普通であり、標準だということです。メシア王国(千年王国)は「新しい力」を持って生きるきわめて活動的な世界と言えます。そんな世界がやがて来ることを信じて待ち望む者はなんと幸いでしょうか。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.8.31
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