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救いの論証(2)


8. 救いの論証(2) 「アブラハムに約束された祝福」

【聖書箇所】3章6~14節

ベレーシート

※3章6~14節の総論

●パウロにとって、信仰とは神への単純な信頼にとどまらず、律法の行為に対立するところのものでした。それゆえ、パウロはアブラハムの例証と、聖書の権威によって論証しています。パウロがここでアブラハムの信仰について語り出していることから、ガラテヤ諸教会に対して、以前に信仰の模範としてのアブラハムのことが教えられていたものと思われます。

■ 3章6節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章6節
「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。

●「カソース」(καθως)は「まさしく~どおり」という意味。「信じる」(「ピステューオー」πιστεύω)のアオリスト、「認められる」(「ロギゾマイ」λογίζομαιのアオリスト受動態)。これと同じ表現がローマ書4章3節にもあります。「聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります」。「認められる、みなされる」(アオリスト受動態)という語彙は、ガラテヤ書ではここ1回限りですが、アブラハムについて論じているローマ書4章では5回(3,9, 10, 22, 23)も使われています。

■ 3章7節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章7節
ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

●「ですから」(「アラ」ἄρα)、「知り続けなさい」(「ギノースコー」γινώσκωの現在命令形)とパウロは述べています。「知りなさい」(新改訳2017)、「知るべきである」(口語訳)、「わきまえなさい」(新共同訳)、「悟りなさい」(フランシスコ会訳)と訳しています。何を知り続けるべきかと言えば、アブラハムは信仰の父であり、イェシュアを信じる人々こそが、アブラハムの子であるということです。「アブラハムの子」の「子」(「ヒュイオス」υἱός)は複数です。新改訳改定第三版までは「子孫」と訳されていましたが、新改訳2017では「」と訳されています。

●「オイ・エク・ピステオース」(οἱ ἐκ πίστεως)を「信仰によって生きる人々」(新改訳2017、聖書協会共同訳)、「信仰による人々」(新改訳改定第三版)、「信仰をよりどころとする者」(フランシスコ会訳)と訳しています。「エク」(ἐκ)を「源、原因、起源、根拠」を表す前置詞として見なしています。

■ 3章8節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章8節
聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

●「プロイデューサ」(προϊδοῦσα)は「あらかじめ知る、見越す」を意味する「プロオラオー」(προοράω)のアオリスト分詞女性で「あらかじめ知っていたので、見越していた」の意味で、その主語は何かといえば、「聖書」(「へー・グラフェー」ἡ γραφὴ女性形)です。何をあらかじめ知っていたかと言えば、「ホティ」(ὅτι)以降のこと、すなわち、名詞節の「神が異邦人を信仰によって義とお認めになること」(ἐκ πίστεως δικαιοῖ τὰ ἔθνη ὁ θεος)です。アブラハムにおける信仰義認は、すべての異邦人におけるイェシュアに対する信仰義認の「予型」です。「予型」とは来るべきより完全なもの(成就)の型という意味で、イェシュアが本体です。予型は本体に基づくものであって、本体が予型に基づくものではありません。つまり、イェシュアに対する信仰義認を見ることができないユダヤ人は、アブラハムにおいてもそれを見ることはできないという関係にあるのです。

●そのために、神はアブラハムに前もって福音を告げたのです。「前もって福音を告げた」は「プロユーアンゲリゾマイ」(προευαγγελίζομαι)のアオリスト中態でこの箇所にだけ使われています。その前もって告げた福音(約束)とは、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」というものです。「異邦人」は「エスノス」(ἔθνος)ですが、このギリシア語は「諸国民」をも意味します。しかし、メシアニック・ジューの聖書では「異邦人」(the Gentiles)と「諸国民」(the Goyim)を区別しています。

●「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」とパウロは述べていますが、ヘブル語原文では「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(新改訳改訂第3版)となっています。新改訳2017では「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」、新共同訳は「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と訳しています。「民族」「部族」「氏族」といった訳語の原語は「ミシュパーハー」(מִשְׁפָּחָה)です。パウロがここを意図的に「異邦人」と変えているのは、彼が異邦人の使徒であるからに他なりません。

■ 3章9節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章9節
ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。

●9節は7節の言い換え表現です。7節では「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい」でした。9節では「ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです」と言い換えられています。いずれも「ですから」と訳されていますが、7節の「ですから」は「アラ」(ἄρα)ですが、9節の「ですから」は「ホーステ」(ὥστε)という接続詞が使われており、「こういうわけで、それゆえに」とも訳されます。「信仰によって生きる人々」は両節とも同じですが、その人々こそ「アブラハムの子」(7節)であり、「信仰の人アブラハムとともに祝福を受ける(=祝福されている)」(9節)としています。

■ 3章10節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章10節
律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。

●原文冒頭の「ホソイ」(ὅσοι)は「だれでも」という関係代名詞ですが、ここでは「みな」と形容詞的に訳されています。また原文の前半と後半には、理由(なぜなら、というのは)を示す「ガル」(γὰρ)があります。9節には「信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです」とあり、信仰によって生きる人々の幸いが記されているのに対し、10節はその反対の事柄が記されています。10節は9節にある信仰の祝福に対する理由が記されているわけではありません、むしろ、ここでの「ガル」(γὰρ)はヘブル語「キー」(כִּי־)のように、「まことに」という意味で使われる方が良いように思われます。とすれば、「まことに律法の行いによる人々はみな(だれでも)、のろいのもとにあります」となり、後半の「ガル」は前半の理由となっているので、「なぜなら、『律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる』と書いてあるから」につながります。この文章は申命記27章26節からの引用です。律法は一部を守っても、すべてを守らなければ、呪われるのです。では、律法を守れば祝福されるのか、と言えば、パウロは人間が律法のすべてを守ることはできないという理由で「祝福されない」と主張しているのが、11節のことばです。

■ 3章11節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章11節
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。

●11節も接続詞「デ」(δὲ)があり、「したがって、それゆえ」と訳すのが良いと思います。さらに、名詞句を導く「ホティ」(ὅτι)があります。その名詞句は「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということ」です。それが「明らか」(「デーロス」δῆλος)だからです。「デーロス」(δῆλος)は「確かに、明らか」を意味する形容詞で、新約聖書では3回しか使われていません(マタイ26:73, Ⅰコリント15:27, ガラテヤ3:11)。

●また10節の冒頭の「ホソイ」(ὅσοι)は「誰でも」でしたが、11節は「誰も~ない」を意味する「ウーデイス」(οὐδεις)があります。そして、理由を示す「なぜなら・・からです」の「ホティ」(ὅτι) 構文があり、「なぜなら、『義人は信仰によって生きる』から」です、となっています。

●「義人は信仰によって生きる」は、他に、ローマ1章17節、へブル10章38節にありますが、これは旧約聖書のハバクク書2章4節からの引用です。ただし、ハバクク2章4節にある「正しい人はその信仰によって生きる」とは、使徒パウロが言う、救われるために必要なのは「律法」か「信仰」か、という意味ではありません。ハバククの場合の正しい人(義人)とは、神の「幻」(「終わりについてのこと」)を信じる人のことであり、その人はその信仰によって「生きる」のだということを言わんとしています。換言するならば、「終わりの事柄」への信仰がその人に希望を与えて、力強く生かしめるということなのです。つまり「御国の福音」がその人を生かすようになるということです。パウロは信仰の重要性・優位性からこのみことばを引用していると思われます。

伊藤明生「パウロのハバクク書2章4節の解釈―キリスト論的解釈の可能性をめぐって」を参照。

■ 3章12節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章12節
律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。

●接続詞の「デ」(δὲ)は「しかし」と訳し、「アッラ」(ἀλλά)は「かえって、むしろ」と訳すと、12節は11節の明確な対句として捉えることができます。「律法の掟」や「掟」は原文にはなく、「これら、それら」を意味する代名詞の「アウトス」(αὐτός)が使われています。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」の「生きる」は、「ザオー」(ζάω)の未来形で、「これからも生きていく」という意味になります。この「律法の掟」とは律法主義を指しています。本来の律法(トーラー)の教えは、契約に基づく神のご計画と約束が記されており、信仰に基づいているものなのです。しかしそれを「律法の掟」(律法主義)として捉えて、それを「行なう」と決断している者は、自らの死を招くことになるのです。

●パウロは「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」というレビ記18章5節のみことばを引用して、信仰と律法を半々にして中途半端に生きてはならないことを諭しています。

■ 3章13節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章13節
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

●ところが幸いなことに、イェシュア・メシアがなしてくださったすばらしいことが記されています。それは「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださった」ことです。キリストの十字架の死は律法の呪いなのです。単に律法の呪いとして終わることなく、私たちを律法の呪いから贖い出して(私たちのために身代わりとなって)くださったのです。それは別な言葉で言うならば、キリストの十字架はさばきであると同時に赦しなのです。これは祝福なのです。

●「木にかけられた者はみな、のろわれている」は、申命記21章23節からの引用です。「のろい」は「カタラ」(κατάρα)と言い、イェシュアによって呪われたいちじくの木はたちまち枯れてしまったように、それは「死」そのものを意味します。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」ということがなぜ可能なのかと言えば、贖罪の子羊は汚れなきものでなければならなかったように、イェシュア・メシアは神の御子として聖なる方であったからです。その方のみが私たち人間の罪を贖うことができるのです。「キリストは私たちのために死なれたこと、葬られたこと、聖書に従って三日目によみがえられたこと、そして現れたこと」(、埋葬、復活、顕現)-これが初代教会の信仰告白でした。

■ 3章14節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章14節
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

●14節には、13節の目的が、二つの接続詞「ヒナ」(ἵνα)で記されています。すなわち、
(1) 「アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及ぶため」
(2) 「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるため」

●(1)の「アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及ぶため」の「よって」は、「エン」(ἐν)という前置詞が使われています。実はこの「エン」(ἐν)は「~において」(新共同訳)とも、「~にある」とも訳されます。いずれにしても、アブラハムへの祝福がそもそもキリスト・イエスによって異邦人への祝福を目指していたという予型的解釈を意味するのです。アブラハムの祝福は、メシア・イェシュアにおける異邦人である「私たち」が祝福される予型だったということなのです。

●(2)の「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるため」とはどういうことなのでしょうか。「約束の御霊」を受ける(受け取る)には、神の御子を信じる信仰による以外に道はありません。御霊は信仰による神の賜物なのです。約束された御霊を受けることによってはじめて私たちはキリストのもの(所属)となり、その結果、キリストにあるすべての霊的祝福が与えられるのです。

●以下のみことばも知っておきたいと思います。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章8~9節、14~19節
8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
9しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。


2019.8.22


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