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救いの論証(5) 途方に暮れているパウロ


12. 救いの論証(5) 「途方に暮れているパウロ」

【聖書箇所】4章8~20節

ベレーシート

※4章8~20節の総論

●ここまでの流れをまとめてみたいと思います。パウロは2章15~21節で語った提題、特に、16節の「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです」という提題(太文字によって三重に畳みかける提題)を論証するために、パウロは旧約聖書から引用しつつ論証をしてきました。

第一の論証(3:1~5)・・・御霊で始まったあなたがたは、肉によって完成されるのか。
第二の論証(3:6~14)・・ 信仰による人々こそアブラハムの子孫であり、異邦人も信仰によって約束の御霊を受けることができる。
第三の論証(3:15~18)・・神によって結ばれた約束は、後にできた律法によって無効とはされない。
第四の論証(3:26~4:7)・ あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって(キリストの真実によって)、神の子どもであり、約束による相続人だということ。

●論証は、4章31節で終わりますが、あと第五(4:12~20)と第六(4:21~31)の論証が残っています。今回は第五の論証を取り上げます。ここでの論証は聖書に基づいてという理性的なものではなく、パウロの心情によるものです。ガラテヤ人が福音の真理に立ち返ってキリストが形作られるまで、パウロが霊の父親として「産みの苦しみ」をしたいということが述べられています。とはいえ、福音における神の苦しみの出来事(事実)がその根拠となっているのです。

■ 4章8節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章8節
あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来、神ではない神々の奴隷でした。

●冒頭の否定を表す接続詞の「アッラ」(Ἀλλὰ)は、7節の「あなたがたは神の相続人です」に対してのものです。新共同訳はこの「アッラ」を「ところで」と訳しています。「あなたがた」とは、異邦人であるガラテヤ人のことを指しています。8節では「かつて」、9節では「今」が対比されます。「かつて」は(聖書の)神を知らなかった、しかし「今」は神を知っている。神を知らなかったときは、「神ではない神々の奴隷であった」と述べています。これは日本人のクリスチャンにも言えます。日本には八百万の神々がいて、それを偶像として拝んでいます。それは3節にもあるように「この世のもろもろの霊の下に奴隷となって」いることでもあります。自分は無神論だと言ったとしても、その中間の状態はありえません。聖書の神を知らないことは、偶像である神々の奴隷であるのです

●「エイドテス」(εἰδότες)は「知る」を意味する「オイダ」(οἰδα)の現在完了形で、否定の「ウーク」(οὐκ)と結びついて「知らなかった」「理解できなかった」の意。「そのとき」(「トテ」τότε)、「あなたがたは奴隷となっていた」(「デュリューオー」δουλεύωの2人称複数アオリスト)。「本来」と訳された「フューシス」(φύσις)はパウロの特愛用語(14回中10回)で、生まれながらの状態を意味します。

■ 4章9節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章9節
しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

●8節の「神を知らなかった」の「知る」は「オイダ」(οἰδα)であったのに対し、9節の「神を知っている」、あるいは「神に知られている」の「知る」には「ギノースコー」(γινώσκω)が使われています。意味としては同義です。「しかし(δὲ)、今ではあなたがたは神を知っている。いや、むしろ(μᾶλλον δὲ)、神に知られている」の表現法は、前者の「あなたがたは神を知っている」を否定することで、後者の「あなたがたは神に知られている」を、より効果的に強調しています。

●イェシュアを拒絶していたパウロをダマスコ途上において捕らえたのは、むしろ主ご自身でした。神を知ることにおいて、人から神への道は完全に閉ざされています。神を知るのは神の働き(=啓示)によるものであって、人間の働きは少しも含まれていないのです。それゆえ、「神に知られている」としているのです。「知る」ことは「選ぶ、選び出す」ことと同義です。例えば、神が地上のすべてのものの中からイスラエルの民を知ることは、それを選び出したことを意味するのです。「選び出す」は神の主権性を意味しています。以下の例は、ヘブル語の「ヤーダ」(יָדַע)が、「知った」ことと「選び出す」ことの両方の意味を持っていることを表しています。

【口語訳】アモス書3章2節
地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った(「ヤーダ」יָדַע)。
それゆえ、わたしはあなたがたの/もろもろの罪のため、あなたがたを罰する。

【新改訳2017】アモス書3章2節
わたしは、地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した(「ヤーダ」יָדַע)。
それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する。

●「あなたがたは神に選び出された者」それなのに、「どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊」に逆戻りして、「奴隷」になりたいと願うのかとパウロは問いかけています。「もろもろの霊」と訳された「ストイケイア」(στοιχεῖα)は「初歩的知識」を意味することから、新改訳改定第三版までは「幼稚な教え」と訳しています。福音から律法主義に落ちていくことは、とてもあり得ないことであり、パウロからするなら全く理解に苦しむことなのです。ガラテヤ人が行いのどの点において逆戻りしていくのか、次節をみれば理解できます。

■ 4章10節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章10節
あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。

●「いろいろな日、月、季節、年」とは、異教の天体崇拝に通じることを指しているのではなく、ユダヤ教の祭りである安息日、断食日、新月、過越の祭りなどを守ることを指しています。「守っている」と訳された「パラティセーミ」(παρατίθημι)は「几帳面に守る」という意味です。ガラテヤの教会の人たちはユダヤ教律法主義者たちによってまさに「奴隷の状態」に「逆戻り」しようとしているのです。

■ 4章11節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章11節
私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。

●自分にとっては「労苦して働いたことが無駄になってしまうのではないか」という面と、あなたがたに対して、「そのことで私は心配している」という面の二つの思いが述べられています。

■ 4章12節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章12節
兄弟たち、あなたがたに願います。私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。あなたがたは私に悪いことを何一つしていません。

●12節からが本格的な第五の論証です。ここで突然、「わたしのようになりなさい」(Γίνεσθε ὡς ἐγώ)という現在命令文「なり続けなさい」になっています。そして、そのあとに理由を示す接続詞「ホティ」(ὅτι)が続き、「なぜなら、私もあなたがたのようになったのですから」と続きます。このあとに「兄弟たち、(私は)あなたがたに願います。あなたがたは私に悪いことを何一つしていません」と続きます。この文節だけではパウロが一体何を言おうとしているのかよく分かりませんが、後者の文節は16節の「私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか」を考えると話が通じます。かつては良好な関係だったのです。前節はその関係に戻りたいとパウロは願って、「私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください」と言っているのです。つまり、律法を守っていたパウロが、律法を知らないガラテヤ人のようになったのですから、ユダヤ教の律法主義になりはじめたガラテヤ人に対して、自分のようになってほしいということなのです。

■ 4章13節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章13節
あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。

●ここから、ガラテヤ人との最初の出会いのときに、パウロの肉体の弱さは病気のためだったと考えられますが、それがきっかけで福音を伝えたということがよく分かりません。福音を宣べ伝えたということは事実だとしても、パウロの予想外の時に、また予定外の場所で福音がガラテヤ人に伝えられたのです。そうであったとしても、それも聖霊の導きであることには違いありません。

■ 4章14節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章14節
そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。

●さらに加えて(καi)、パウロの肉体は「あなたがたにとって試練となるものがあった」と述べています。具体的なことは語られてはいませんが、「軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって(ἀλλὰ)、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました」と述べています。ここから、とても良好な出会いであったことがわかります。ガラテヤ人たちはパウロを神から遣わされた使徒として迎え入れたのです。

■ 4章15節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章15節
それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。

●「それなのに」の意外感を意味する逆説接続詞の「ウーン」(οὖν)で、「あなたがたの幸いはどこにあるのか?」と問いかけます。冠詞付きなので「あの喜びはどこに」「あの感激はどこに」とも訳されます。いずれにしても、この「幸い、喜び、感激」は福音を聞いたことによるものです。

●「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえした」とはどういうことでしょうか。字義通りか、比喩的な表現なのか。パウロはこの手紙の最後に、自分は目が悪いので口述筆記させているが、最後の挨拶だけは、大きな文字で、自分の手で書いていると言っています。パウロは実際に目が悪かったと思われますが、それにしても、「もし・・できることなら」(「エイ・デュナトン」εἰ δυνατoν)、「自分の目をえぐり出して与えようとさえ」と思ってくれたほどの関係だったのです。それほどに福音に接した感激は尋常ではなかったのです。

■ 4章16節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章16節
それでは、私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。

●ここでは完全な方向転換が起こっています。ガラテヤ人たちは自分たちが神の御使い、また神の御子かのように迎え入れた者を、今や、自分たちの敵であるかのように見なしたのです。なぜなら、パウロが彼らをとがめ、いさめたからです。ここにも「ああ愚かなガラテヤ人」(3:1)が当てはまります。

■ 4章17節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章17節
あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。

●パウロは、ガラテヤ人に対するユダヤ人律法主義の偽教師たちと自分を比較しようとします。「あの人たちは・・熱心です」と訳されていますが、「彼らは熱心に言い寄る」を意味する動詞「ゼーロオー」(ζηλόω)の3人称複数です。「善意からではない」、つまり不純な動機によるものであり、それどころか(「アッラ」ἀλλὰ)、原文は「あなたがたに対して彼らは・・を締め出すことを求めている」(「‥」の部分に「私を」とか「福音の真理を」という語彙を補って)と訳されています。そしてその理由・目的を示す接続詞「ヒナ」(ἵνα)があって、「彼らを熱心に慕うようにするため」となっています。

■ 4章18節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章18節
善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。

●逆説の接続詞「デ」(δὲ)の「しかし」、「善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです」とパウロは述べています。ただし、ここは道徳的な意味での「善意」(「カロス」καλός)ではありません。「善意」とは神ご自身のことです。つまり、人間にとって善とは神から遣わされたイェシュアに従うことです。その意味で熱心に慕い、かつ慕われることは、いつでも良いことなのです。パウロはガラテヤ人たちとこのように関係を築くことを切に願っているのです。そのためにパウロが自らしようとしていることが、次節のことなのです。

■ 4章19節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章19節
私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

●パウロはガラテヤ人たちのことを「私の子どもたち」と呼んでいます。父と子の関係を築くために、パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをする」という決意、これがキリストにある思いなのです。「産みの苦しみをする」という「オーディノー」(ὠδίνω)は、新約で3回しか使われていません(ガラ4:19, 27、黙示録12:2)。「キリストが形造られるための」愛の痛みをパウロは経験しているのです。

■ 4章20節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章20節
私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。

●この節を新改訳第三版では「それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです」。口語訳では「できることなら、わたしは今あなたがたの所にいて、語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方にくれている」と訳しています。「あなたがたといっしょにいることができたら、語調を変えて話してみたい」とはいったいどんな語調なのでしょうか。

●「途方に暮れている」パウロ。この姿に使徒としてのパウロの真実が表されています。ガラテヤの教会とは異なりますが、へブル人への手紙6章では逆に「去る者は、追わず」の姿勢として記されているようにも思います。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙6章4~6節
4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、
5 神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、
6 堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。


2019.9.26


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