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新しいこと、あなたの知らない秘め事

18. 新しいこと、あなたの知らない秘め事

【聖書箇所】イザヤ書48章1~16節

ベレーシート

●前回の47章の「バビロンを襲う突然の破滅」から、48章のイスラエルと、彼らに対する主ご自身のみこころに目を向けたいと思います。なぜイザヤ書を学ぶのかといえば、それは「神のご計画の全貌が預言されている」書だからです。旧新約聖書全体が「終わりの日」について預言していますが、そのために選ばれた主役がイスラエルなのです。神はイスラエルを基軸として、ご自身のご計画を啓示しています。

●今回の説教題を「新しいこと、あなたの知らない秘め事」としました。ここで「あなた」とされているのは、一般的な人のことではなく、神によって選ばれた人、すなわちイスラエル(ユダヤ人)だということです。驚かれるかもしれませんが、聖書は本来ユダヤ人に対して書かれたものです。イェシュアもユダヤ人、神もイスラエルの神です。その基本軸は決して忘れてはならないのです。神はイスラエルとその歴史を通して、ご自身のご計画とみこころ、みむねと目的を啓示しておられるのです。人の創造も「人類の初め」として理解するのではなく、「イスラエル」と理解するときに、初めて神のご計画の全貌が見えてくるのです。また「人の救い」もイスラエルを基軸とすることによって正しく理解できるのです。使徒パウロもユダヤ人です。その彼が人は「心とからだ」ではなく、「霊とたましいとからだ」から成っていることを述べています(Ⅰテサロニケ5:23)。これは、人が神によってちりから形造られ(ヤーツァル:יָצַר)、その鼻からいのちの息を吹き入れられたことによって「生きるもの」(ネフェシュ・ハッヤー:נֶפֶשׁ הַיָּה)とされたことがその根拠となっています。同様に、「万民」とは、世界にいるすべての人々ではなく、「イスラエルと異邦人」から成っていることも然りです。イェシュアが死んで復活し「いのちを与える霊」となられ、人の霊に入って人の霊とミングリングすることで、人の救いがなされます。神の国(御国)はすでに人の霊の中に来ていますが、この世における「万民の救い」はいまだです。それは王なるイェシュア・メシアの地上再臨によって実現されますが、人の霊において、御国において、いずれも実現されなければ、神のご計画は実現・成就しないのです。この両者は密接な関係にあります。

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【新改訳2017】イザヤ書48章1~12, 16節
1 これを聞け、ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、真実をもってせず、また正義をもってしない。
2 実に彼らは聖なる都の出だと自称し、その名が万軍の主であるイスラエルの神に寄りかかっている。
3 「かつて起こったことは、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出て、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した。
4 あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、
5 わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とかあなたが言わないようにするためだ。
6 あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しいことを、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる。
7 それは今、創造された。ずっと前からではない。今日まで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』とあなたが言わないようにするためだ。
8 あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。
わたしはあなたが必ず裏切ることを、母の胎内にいるときから背く者と呼ばれていたことを知っていたからだ。
9 わたしの名のために怒りを遅らせ、わたしの栄誉のためにそれを抑えて、わたしはあなたを絶ち滅ぼさなかった。
10 見よ。わたしはあなたを錬ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。
11 わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。
12 わたしに聞け、ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしが初めであり、また、終わりである。
16 わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れたところでは語らなかった。それが起こったときから、わたしはそこにいた。」今、神である主は、私をその御霊とともに遣わされた。


1. 「これを聞け、ヤコブの家よ。」

【新改訳2017】イザヤ書48章1~2節
1 これを聞け、ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、真実をもってせず、また正義をもってしない。
2 実に彼らは聖なる都の出だと自称し、その名が万軍の主であるイスラエルの神に寄りかかっている。

●「聞け」という命令は、48章の中に4回登場します(1,12, 14, 16節)。いずれも3~16節で語られている主のことばに対してです。「」とは、45章18節にあるように、「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方」です。その主のことばを聞こうとしない「ヤコブの家」に向かって、主が語っているのです。

●1節には「ヤコブの家」の実体が記されています。その「ヤコブの家」の「ヤコブ」とはイスラエルの肉的な面を強調する呼称です。しかしその「ヤコブの家」が「イスラエルの名で呼ばれ」とは「名誉ある名で呼ばれている」ことを意味します。また「ユダの源から出て」とはイスラエルの家系を継承する特権が与えられているという意味です。ところが、彼らは「主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求める」が、その実体は「真実をもってせず、また正義をもってしない」とあります。「真実」と訳された「エメット」(אֶמֶת)は「誠実」とも訳されますが、それは神に対する偽りのない信頼を意味することばであり、「正義」と訳された「ツェダーカー」(צְדָקָה)は偽りのない神への真実(信頼)から出て来る行為を含んだ語彙(共同訳=恵みの業)です。しかしそうしたことがまったく見られないにもかかわらず、平気で主の御名を呼び、主に誓ったりしているのです。これはまさにパウロの言う「肉に属する人」そのものです。それは、霊とまことの礼拝を求めておられる神に対して偽善的、形式的礼拝者です。それゆえ、結果的に彼らはバビロンの捕囚の民となってしまうのですが、ここに隠されていることがあります。それは何かといえば、まことの礼拝のために必要な「霊」が彼らにはまだないという事実です。この事実が隠されているのです。

●2節もそうです。彼らは「聖なる都の出だと自称し、その名が万軍の主であるイスラエルの神に寄りかかっている」とあります。どういう意味でしょうか。「聖なる都の出だと自称し」とは「自分たちが聖なる者である」と思い込んでいるということです。「破滅の都バビロン」とは対照的に、エルサレムは「聖なる都」です。そのように呼ばれるのは、神が自らそこをご自身の住む場所として選ばれたからです(詩篇132:13~14)。しかし、バビロン捕囚の時にエルサレムの城壁は壊され、聖なる都にある神殿も破壊され、住民のほとんどは捕囚の身とされ、聖なる都エルサレムは完全に廃墟とも化すのです。だとしても、やがて地上に打ち立てられるメシア王国の中心地として、神がエルサレムを選ばれたことは決して変わらないのです。神の選びは不変です。このことを信じ抜くことが、ヤコブの家(イスラエルの民)にとっての希望と言えます。ところが、その「聖なる都」の民となるべきイスラエルの民は、いまだに「頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅」(4節)なのです。「頑な」なことを「首筋は鉄の腱」、「額は青銅」と言い換えていますが、なんとも辛辣な表現です。そして現在もそうなのです。そうした「ヤコブの家」の者に対して、主は「これを聞け」つまり「主のことばを聞け」と語られています。

●「聞け、イスラエル」(シェマ・イスラエル/申命記6:4)は預言的な命令です。預言的とはイェシュアが来なければ分からないということです。「聞け」とは、「御子の言うことを聞け」ということです(マタイ17:5)。しかしユダヤ人(イスラエル)はいまだに聞こうとはしていないのです。人がエデンの園で蛇にだまされてからというもの、人は神のサインもことばも正しく聞くことができなくなってしまったばかりか、神との会話に齟齬が生じるようになった(なっている)のです。

2. 新しいこと、あなたの知らない秘め事とその目的

【新改訳2017】イザヤ書48章3~5節
3 「かつて起こったことは、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出て、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した。
4 あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、
5 わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とかあなたが言わないようにするためだ。

(1) 預言と成就

●3節で「かつて起こったことは、前からわたしが告げていた。・・・にわかに、わたしは行い、それは成就した。」とあります。「告げていた」ことが「成就した」、つまり「預言と成就」があります。なぜ神がことを行う前に、予め預言するのでしょうか。予め警告をして、そうならないようにするためでしょうか。いいえ。決してそうではありません。4~5節でその理由が語られていますが、それによれば、私たちの考えとは異なるようです。神が預言するのは、イスラエルの心がいかに頑なであるかを示すためです。また預言が成就することによって、「私がより頼んだ神(偶像)がこれをした」と言わせないためだとしています。つまり予め告げたことが成就することで、だれが歴史を支配し、かつ動かしておられるのかを教えるよりも、イスラエルの頑なな心を鮮明にするためです。

●「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」(ヘブル1:1~2)とあります。御子は預言者として、これ以上ない最高の切り札として遣わされたにもかかわらず、御子のことば(預言)は神に対する人間の根強い不信をより明らかにしたのです。イェシュアの初臨がそうであったように、キリストの再臨の時も必ずそうなるのです。ですから、預言は少しでも人々が救われるためのものではなく、むしろ神に対する人間の頑なさ(不信)を明らかにする(あぶり出す)ためのものなのです。イザヤの預言者としての召命もそうであったことを忘れてはなりません(イザヤ6:9~13)。

【新改訳2017】イザヤ書6章9~13節
9 すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」
11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。
12 主が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。
13 そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。
しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔(=「イスラエルの残りの者」)。

(2) 神の恐るべき宣告

●イザヤに告げられた最初のメッセージは、「行って、この民に告げよ。・・(しかし)その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ」でした。閉ざされるゆえに、ますます「目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもない」という恐るべき宣告だったのです。「閉ざせ」とはいえ、いつかは「開かれる(理解される)」に違いないと思い、イザヤはこう尋ねます。「いつまでですか」(11節)と。すると、それに対する主の答えが11節後半~13節のことばです。旧約の歴史を知る者なら、これはバビロン捕囚までに違いないと考えます。ところが13節の「しかし」以降が重要なのです。直接的には答えていませんが、最初の審判があり、その中でもなお十分の一が残る、しかし第二の審判によって、その残りさえも焼き払われる。ところが、切り倒された木のように、そこに切り株が残る。この切り株こそ「聖なる裔(すえ/種子:ゼラ:זֶרַע)」、すなわち「新しくされたイスラエル」の誕生なのです。つまりこれは、世の終わりに登場する「イスラエルの残りの者」のことであり、彼らこそ、イスラエルの栄光の望みなのです。これがイザヤ書の最も重要な教えの核心です。パウロもローマ人への手紙9章27節で「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる」と述べています。これはイザヤ書10章22節の引用ですが、そこと少し違う理由は、引用元がLXX訳聖書だからです。

(3) 新しいこと、あなたの知らない秘め事

●イザヤ書48章に戻ります。

【新改訳2017】イザヤ書48章6~10節
6 あなたは聞いた(完了形)。さあ、これらすべてを見よ(ハーザー:חָזָה)。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しいことを、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる
7 それは今、創造された。ずっと前からではない。今日まで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』とあなたが言わないようにするためだ。
8 あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしは、あなたが必ず裏切ることを(「不定詞+未完了」構文)、母の胎内にいるときから背く者と呼ばれていたことを知っていたからだ。
9 わたしの名のために怒りを遅らせ、わたしの栄誉のためにそれを抑えて、わたしはあなたを絶ち滅ぼさなかった。
10 見よ。わたしはあなたを錬ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。

●まず、6~10節にある「あなた」とは誰のことでしょうか。それは「ヤコブの家」つまり「頑ななイスラエルの民」のことです。「今日まで、あなたはこれを聞いたこともない」し、たとえ聞いていたとしても「耳は開かれることなく、あなたが必ず裏切ることを・・わたしは知っていたからだ」と告発されています。つまりこれは初めから聞こうとしない、神のすべてのことばや約束を無視するだけでなく、目に見えることだけを信じる、それゆえ神を信頼できないがゆえに神を裏切る、「必ず裏切る」のです。ここでは「裏切る」をも意味する「バーガド」(בָּגַד)が「不定詞+未完了形」で重ねられています。「必ず~する」という、これまでACで何度も取り上げて来た構文です。

●「裏切る」根拠が、「母の胎内にいるときから背く者と呼ばれていた」からです。存在の根が「背く者」であるゆえに「裏切る」のです。必ず裏切る者となるということに対して、神の怒りが臨んだとしても決しておかしくはありません。ところが神はその責任を彼らに向けず、「わたしの名のために怒りを遅らせ、わたしの栄誉のためにそれを抑えて、わたしはあなたを絶ち滅ぼさなかった」とあります。それゆえ、今もなおイスラエルは存続しているのです。

●10節にも同様のことが語られています。「見よ。わたしはあなたを錬ったが、銀のようではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した」とあります。「銀のようではない」とはどういうことでしょうか。銀は元々価値ある物ですから精錬する価値があります。しかし、イスラエルの民には精錬するほどの価値はないという意味です。イスラエルの民は、神の基準に全く達していないため、滅ぼされて当然の存在であったのです。しかし6節後半に「新しいこと、あなたの知らない秘め事」があるのです。ここを原語で見てみましょう。

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●原文では動詞は「聞かせた」ですが、訳は「わたしは今から、新しいことを、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる」(預言的完了形)となっています。それはつまり「やがて聞かせるようにさせる」という意味です。  
続く7節には「それは今、創造された。ずっと前からではない。今日まで、あなたはこれを聞いたこともない」とあります。「それは今、創造された」の「創造された」も預言的完了形です。ですからその新しいこと、秘められた事が、時が来るなら必ずなされる、つまりイスラエルはやがて神のことばを正しく聞いて理解するようになるということです。極めて頑ななイスラエルが「聞け、イスラエル」と命じられた通り、神のことばを、御子のことばを聞くようになることを「創造(新創造)された」と表現していると思われます。その内容については何も記されてはいませんが、思うに、イスラエルを偶像礼拝の罪から解放するために神の御子イェシュアがなしてくださった一連の贖いの出来事を含んだ、神の壮大なご計画について、彼らは聞き悟るのだと推察します

●16節に不思議なフレーズ「今、神である主は、私をその御霊とともに遣わされた」です。ここでの「私」はイザヤではなく、御子イェシュアを指しています。次章の49章では、イェシュアを指す「主のしもべ」が登場します。イスラエル(ユダヤ人)の歴史上における災いのすべては、肉がもたらす偶像礼拝の罪の結果です。それゆえ、神は御子をこの世に「主のしもべ」として遣わされるのです。このしもべは奴隷としてのしもべではなく、御父に聞き従う祭司としてのしもべであり、同時にイスラエルを罪から救う主のしもべでもあります。

【新改訳2017】マタイの福音書1章21節
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。

①「ご自分の民」とは、イスラエルの民のこと。
②「その罪から」とは、イスラエルの民が歴史で何度も繰り返す「偶像礼拝」の罪(複数)からということです。
③「お救いになる」の「救う」は「ヤーシャ」(יָשַׁע)で、その名詞が「イェシュア」(יֵשׁוּעַ)です。

●イスラエルが何度も繰り返す「偶像礼拝」の罪とは何でしょうか。それは霊ではなく、肉(たましい+からだ)によるすべての希求です。肉は神に敵対します。それは目に見える偶像ではなく、内なる偶像です。宗教的慣習、儀式、制度、体系等、パウロが言っているストイケイア、偶像礼拝です。また偶像とは自分のたましいを無限に肯定してくれる神であり、自分中心の思いや感情、行いであったりします。それらは神の与えるいのちに相反するので、神は言わば一方的に、かつ強制的に「恵みと嘆願の霊」(ゼカリヤ12:10)を注ぐことによって、イスラエル(ユダヤ人)を神中心に造り変えてしまうのです。実は、この「恵みと嘆願の霊」も御霊であり、イェシュアの霊なのです。

●このためには、イェシュアの「受胎告知・受肉・誕生・洗礼・40日間の試練・御国の宣教、受難・死・復活・秘密の昇天・息を吹きかける・40日間の顕現・昇天・着座・再臨(空中・地上)」が前提として不可欠でした。どれ一つ除いても贖いは成立しませんが、とりわけ重要であるのは、イェシュアが復活後に「いのちを与える御霊」となられたことなのです。一方、弟子たちエックレーシアに対して、霊を吹きかけた後に語られた「聖霊を受けなさい」にはアオリスト命令形が使われています。この命令形は、一回的、決定的、主体的に、自らの意志で受け取ることを意味します。使徒の働き16章の看守に対して、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」の「信じなさい」もアオリスト命令形です。これはイスラエルの場合とは明らかに異なります。
エックレーシアに属する人には「霊の中に生きる」ことが求められ、たましいもからだも霊によって「造り変え」がなされ続けています。これがキリストにある「新創造」(New Creature)です。しかしイスラエルの場合はこれからです。「イスラエルの残りの者」がその恵みである新創造に与るのは世の終わりの時で、そのとき彼らには一方的に、むしろ強制的に「恵みと嘆願の霊」が注がれるのです。それによって彼らはイェシュアこそがメシアだと信じて神に立ち返り(悔い改め)、彼らに与えられている「王なる祭司としての務め」を果たします。整えの期間を与えられて御国の福音の種を蒔くことで、数えきれない大勢の異邦人に「救い」をもたらすのです。これが、11節の「わたしのため、わたしのために、わたしは(これを)行う」という神の宣言につながっているのです。

3.聖なる名が汚されないために

【新改訳2017】イザヤ書48章11節
わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。

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●これはどういうことを意味しているのでしょうか。明白なことは、イスラエルのためではなく神のためだということです。結論的に言うならば、これは神のご計画を実現・成就するために、神の統治(支配)の権威を示すことであり、それを歴史という舞台で実証することを意味しています。「わたしのため、わたしのために、わたしは(これを)行う」という神の宣言の目的は、「聖なる名が汚されないため」です。A.D.70年にエルサレム神殿がローマ軍によって完全に破壊され、多くのユダヤ人は殺され、また奴隷として多くの国に離散していきました。イスラエル(ユダヤ人)は散らされたそれぞれのところで主の名を汚しました。それはどういうことかと言えば、「主の民であるのに、主の国から追い出された」と諸国の民から言われたことでした。また、神が本来イスラエルに与えた務めを果たすことなく、むしろ自らを守るために、金融やメディアを支配し、グローバル思想をもって世界を支配しようとしたことです。それらも主の名を汚すものでした。それゆえ、彼らの神への信仰とは無関係に、主はご自身の「聖なる名のために」、彼らを強制的に回復するのです。そのことを力説しているのが、預言者エゼキエルです。

【新改訳2017】エゼキエル書36章20~23節
20 彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。
人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。
21 わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。
22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。
イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
23 ・・・わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る──神である主のことば──。

●23節のことばは重要です。これがなされるために、神はどんなことをされるのでしょうか。それは「新しい心と新しい霊を授ける」という約束です(26~27節)。このことによって全イスラエル(=イスラエルの残りの者)は、主のおきてに従って歩み、主の定めを守り行うことができるようになるのです。この回復は、ゼカリヤ書の「恵みと嘆願の霊」と同様、まさに神の不変のご計画であり、心躍る驚くべきわざです。人によってそれを実現することは不可能です。あくまでも神ご自身の主権によって事を成就されるのです。これが、イザヤの言う「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う」が意味することなのです。これは、人本主義(ヒューマニズム)に立つ人々にとってはつまずきのことばです。しかし聖書を貫く神本主義から言うなら、余りに当然のことなのです。本来、この世界は神によって造られたにもかかわらず、人の罪によって神の目的から逸れてしまいました。しかし、神は再びみこころにかなった世界を再創造しようとされています。それは永遠に神と人が共に住む世界です。これが神の不変のご計画です。私たちが認めようと認めまいと、信じようと信じまいと、必ず神のこのご計画は成就します。

ベアハリート

●キリスト教会が大切にしている祈りに「主の祈り」があります。その祈りには、私たちの願いや希望が入り込む隙間は有りません。なぜなら、その祈りは主の統治が完全にこの地に実現するための祈りだからです。そしてその祈りはイェシュアの再臨によって必ず実現します。ここに「御国の福音」があるのです。このことを認めない人本主義(ヒューマニズム)は、この地上における神の統治とその栄光を決して受け入れることはありません。やがてそのことが明白になる時が来ることを、神のことばが語っているのです。つまり、歴史に登場するすべての者たちは、この神のご計画を実現・成就させるための器にすぎないからです。私たちの関心が私たち自身の領域ではなく、「私のため、私たちの教会のため」から「向きを変え」て、神ご自身の関心の領域へと向ける祈りなのです。メシアが支配するマルフート(王国)のすばらしさは、絶対的信頼をもって王に信頼する民がいることです。王であるメシア・イェシュアがそうした民を新しく創造される(バーラー:בָּרָא)ことで、聖なる御名の栄光が輝くのです。

三一の神の霊が、私たちとともにおられます。

2026.1.04
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