****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

新しいひとりの人

第16日目 新しいひとりの人(One New Man)

【聖書箇所】エペソ2:15b

【新改訳改訂第3版】
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

ἵνα τοὺς δύο κτίσῃ ἐν αὐτῷ εἰς ἕνα καινὸν ἄνθρωπον ποιῶν εἰρήνην,
(ネストレ26版)

ἵνα τοὺς δύο κτίσῃ ἐν ἑαὐτῷ εἰς ἕνα καινὸν ἄνθρωπον ποιῶν εἰρήνην--
(ネストレ27版)


※白畑氏の逐語訳(ネストレ27版)
それは、二つのものを、自分自身によって( ἐν ἑαὐτῷ )、平和を造り続ける新しいひとりの人へと創造するためです。



はじめに

  • 今日の説教題は「新しいひとりの人」(One New Man)です。このことばが意味するものは、エペソ人への手紙の中心的なテーマを一言で表している、とても重要なキーワードです。先々週の説教で、2章10節にある「私たちは神の作品」であるということについて触れました。ここには、神が私たちをある目的をもって私たちをキリストにあって作られたといことです。もう一度、10節の聖書のみことばを読んでみたいと思います。

    私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエス にあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、 その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

  • ここで神がどのような目的で私たちを作られたのが、その目的が記されています。その目的とは、私たちが「良い行いをするため」、あるいは「良い行いに歩むように」、しかも、その「良い行い」ができるように、その力や知恵をあらかじめ備えて下さっていると。
  • この最後の「あらかじめ備えてくださった」とあるということは、この「良い行い」をする上で、あなたが特別に自分で頑張ったり、自分の努力でしようとしたりすることは必要ないということです。この目的を実現させていくためのすべての力は、すでに神が備えて下さっていると約束しています。どこに備えられていると思いますか。それは、天の所です。ですから私たちがすべきことは、その天の所に「座ること」です。座ることで、はじめて「歩み」ができ、敵に対しても「立つ」ことができるのです。そうした前提をもって、「良い行い」がどういうものかについて考えてみるなら、「良い行い」とは、「キリストのからだを建て上げる」という一言に尽きます。
  • このキリストのからだを建て上げるという目的は、神の夢であり、ビジョンです。その目的を実現すべく、私たちが選ばれたのです。これは長い間、隠されてきた奥義(神の秘密)だったのです。誰に対して隠されてきたかというと、神に選ばれた民、すなわちイスラエルの民(ユダヤ人)に対してです。その彼らが、キリストによって、神のみこころの奥義が示されるようになった。その奥義をパウロはこのエペソの手紙では次のように表現しました。

1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

  • 「いっさいのものが、キリストにあって一つに集められると」、これを別な表現でするとすれば(パウロという人は、「あること」を説明するのに、様々な表現を用いる天才だということを念頭に置いてください。実は、このことが分かると一本の筋が見えてくるのです)、1:22~23になります。

1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

  • キリストをかしらとするキリストのからだ、つまり、教会こそ、神の作品なのです。その神の作品であるキリストのからだなる教会は、神に選ばれたイスラエル(ユダヤ人)とそれに接ぎ木された異邦人によって構成されるという新しい神の作品を「新しいひとりの人」ということばで表そうとしているのです。

1. 二千年間、見失われていた奥義としての「新しいひとりの人」

  • ところで、このパウロが記した「新しいひとりの人」という概念は、キリスト教の歴史において、約二千年間、隠され続けてきた奥儀なのです。すでに使徒のパウロには開かれていましたが、その後、この真理は見失われたのです。この「新しいひとりの人」という真理が再びクローズアップされたのは、イスラエルの国が建国された1948年以降のことです。つまり、教会がキリストにあって、キリストの花嫁として完成されるためには、イスラエルの民が約束の地において、国家的、霊的再生を遂げることなしにはあり得ないということなのです。
  • 二千年にわたって、キリスト教会はユダヤ人たちを迫害してきました。ユダヤ人はメシアであるイエスを十字架につけた罪によって神から見捨てられ、自分たちが彼らに代わってその役割を与えられたと考えてきたのです。ところが、そうした考えが間違っていたことを、神は20世紀において示され始めたのです。その画期的な出来事がイスラエルの建国でした。イスラエルの国が再建されたのです。そしてユダヤ人たちの中から、イエスがメシア、すなわちイエスが救い主であると信じる者たちが少しずつ起こされ始めたのです。彼らをメシアニック・ジューと言います。現在のイスラエルにおいてはメシアニックの数は約一万人前後だと言われていますが、ユダヤ人がイエスをメシアと信じることなくして、キリストのからだとしての教会は完成しないのです。つまり神のヴィジョン、神の夢は実現しないのです。
    画像の説明
  • 私たち日本人にとってユダヤ人の存在はこれまで遠いものでしたが、今やきわめて重要な存在なのです。なぜなら、私たちは彼らに接ぎ木された存在だからです。
  • 接ぎ木の絵にあったように、本来は、私たち異邦人がイスラエルに接ぎ木されたのです。私たちが持っている聖書、これには旧約聖書と新約聖書とから成っています。旧約とは旧い契約のことで、新約とは新しい契約のことです。神と神によって選ばれたイスラエルの民との約束です。私たち異邦人にとっては、新しい契約というよりは初めて与えられた唯一の契約です。本来、旧約、新約という概念はイスラエルの民(ユダヤ人)たちに対してなされたものです。ユダヤ人にとってのみ新しい契約だったのです。
    画像の説明
  • 教会は、歴史のある時点においては一つの民族、ユダヤ人から誕生し、初代教会は基本的にはすべてその構成員はユダヤ人でした。私たちの主イエス・キリストもユダヤ人でしたし、教会のリーダーである使徒たち、弟子たちもユダヤ人でした。新約聖書を書いた者たちの多くもユダヤ人であったことを忘れてはなりません。教会はイスラエルという土壌で発芽し、花開いたのです。キリストの福音が世界に広がる土台となったのも彼らイスラエルの民、すなわちユダヤ人なのです。彼らに与えられた神の永遠の契約―その契約に私たち異邦人が接ぎ木されたので、その結果、世界中の諸民族が神に受け入れられるようになったのです。どのように接ぎ木がなされたのかと言えば、それはイエス・キリストの福音によってです。つまり御子イエスが十字架によって罪の贖いをなし、よみがえられ、天の所に着座されたことによってです。このイエスの出来事によって、私たち異邦人もユダヤ人に対して与えられていた神の契約に接ぎ木されることができたのです。
  • エペソ3章6節によればこうあります。

3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

  • これこそが神の新しい作品である「新しいひとりの人」のヴィジョンなのです。

2. 接ぎ木される以前の異邦人の姿

  • ここで、接ぎ木される以前と以後の異邦人の姿についてパウロが記していることをざっと見てみましょう。エペソ2章11節以降

11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、 12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人 たちでした。

13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15二つのものをご自身において新し いひとりの人に造り上げて、平和を実現 するため・・なのです。

18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

  • ここでこれまでのことを「キリストの救いの諸相」として整理してみたいと思います。

(1) 2章1~7節
霊的に死んでいた私たちが、キリストとともに「生かされ」「よみがえらされ」「天の所に座らされている」こと

(2) 2章8~10節
私たちが、良い行いをするための神の作品として造られたこと(再創造されたこと) 「良い行い」とは、キリストの体を建て上げること

(3) 2章11~15節
肉において異邦人(キリストから離れ、除外され、望みもなく、神もない者)であった私たちが、キリストによって、「近い者とされた」つまり、接ぎ木された者となった。

(4) 2章15~16節
ユダヤ人と異邦人をキリストにおいて、「新しいひとりの人」に造り上げて、平和を実現すること。つまり、ユダヤ人と異邦人がともにひとつのからだとなるということ。これは「奥義」だということ。

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3.「新しいひとりの人」を実現するために私たちがなすべきこと

(1) ユダヤ人が救われるために祈ること

  • ホーリネス教団の中田重治監督がしたことは、イスラエルの建国などだれもが信じていなかった時代に、やがてユダヤ人はイスラエルに帰還する神の約束を信じて、彼らの救いのために祈ったことである。彼はヨハネの黙示録7章を通して、日本のクリスチャンがなすべきことは、ユダヤ人の救いのために祈ることであると確信したことである。
  • 日本の民の救いのための働きとイスラエルの民のそれとは、車の両輪の関係にあることを正しく理解することです。

(2) ユダヤ人の救いのためにささげること

  • 当教会では、礼拝献金の10%をイスラエルのためにささげています。わずかな額かもしれませんが、神の夢の実現のためにそのわざに参加しているわけです。

(3) 自分のうちにあるさまざまな敵意を廃棄して、平和の絆を保つこと

  • ユダヤ人と異邦人との間にある「敵意」は、私たちが想像する以上のものです。この敵意(隔ての壁)はアブラハムが神によって救いの担い手して選ばれた時から始まっていました。
    <敵意の象徴>  
    ①神殿にある異邦人の庭(事実上の立ち入り禁止の区域の存在を示している)
    ②律法の存在
    ③土地をめぐる戦い
    ④迫害によるトラウマ
  • ユダヤ人と異邦人にある敵意の中に、この世に存在する「分裂の根」が存在します。そしてこれは今も存在し、やがてイェシュアが(地上)再臨される前まで続きます。現代のイスラムのテロ活動もここに起因します。テロはイスラエルを支援する国に対するイスラムの戦いです。
  • 私たちのうちにもさまざまな隔ての壁が存在します。その壁をキリストによって打ち壊される必要があります。その隔ての壁は自分が最も正しいと思っていることであることが多いのです。私たちの善悪の基準、嗜好、文化、習慣などの隔ての壁が、キリストにあって打ち壊されるならば、平和がそこに生まれます。私たちはメシアによってその平和がこの地上に完全な目に見える形で訪れることに望みを抱いているのです。

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