****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

新しい天と新しい地 (1)

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13. 新しい天と新しい地 (1)

「聖なる都」「新しいエルサレム」

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【聖書箇所】ヨハネの黙示録21章1~11節

ベレーシート

  • これまで、聖書の終末預言を学んできましたが、少し、整理してみたいと思います。

    (1)主にあって死んだ者(クリスチャン)の魂はその肉体から離れて、キリストのもとに行き、朽ちることのない肉体の復活を待ちます。
    (2) キリストの空中再臨の時に、肉体は栄光のからだに復活し、その時に生きている者たちも空中に引き上げられ、朽ちないからだに変えられます。キリストの教会はキリストの花嫁として迎えられ、教会時代は終わります。
    (3) 七年間の反キリストによる患難時代を迎えます。これは主に神の民ユダヤ人の救いのためです。
    (4) 大患難を潜り抜けたユダヤ人に恵みと哀願の霊が注がれ、悔い改めた後に、キリストはエルサレムに地上再臨され、千年王国が始まります。キリストの地上再臨と共に、花嫁である聖徒たちも共に地上に来て、千年王国を生きるようになります。また、全イスラエルの民が全地の四方から集められて、最終的な帰還が実現します。
    (5) 千年王国は旧約預言の成就です。サタンは幽閉され、キリスト(メシア)による地上統治がなされます。戦争はなくなり、普遍的な平和が訪れ、地は癒され、多くの実りを得ます。人々は主を知り、主のみ教えによって生きるようになり、旧約で預言されたメシアによる祝福を存分に味わうようになります。しかし千年王国では、古いものと、新しいものとが混然としています。
    (6) 千年王国の終わりには、サタンが牢から解放され、最後の反逆を試みますが、その時がサタンの最期となります。天と地が完全に崩れ去り、あとかたもなくなったあとで、大きな白い御座の前のさばきがなされます。そのあとで、キリストはすべての支配を御父にお渡しになります。

  • 以上が、これまで学んできた内容の大筋です。今回は、神の救いのご計画の最終ステージです。新しい天と新しい地が創造され、「聖なる都」「新しいエルサレム」が天から下って来て、神と人とが地上において永遠に存続します。

1. 私は見たー「新しい天と新しい地」を

【新改訳2017】ヨハネの黙示録21章1節
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
※ここでの「海」は単数。創世記1章10節の「海」は複数。いずれも神に敵対する諸国を意味します。おそらく黙示録の単数の海は反キリストによってまとめられた一つの勢力だったからと考えられます。

  • 「私は、・・見た」という黙示録の定型句。この定型句は21章に2回あります(1, 2節)。この定型句は、啓示の新たな展開を示すものできわめて重要です。

(1) 「新しい天と新しい地」という表現について

  • ヨハネが見た「新しい天と新しい地」という表現は、旧約聖書(イザヤ書65:17、66:22)にも見られます。果たして、旧約のイザヤはヨハネが見た「新しい天と新しい地」について啓示されたのでしょうか。イザヤ書65章17節以降を見てみましょう。

    【新改訳2017】イザヤ書65章17~25節
    17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
    18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
    19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
    20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
    21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
    22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
    23 彼らは無駄に労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは【主】に祝福された者の末裔であり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
    24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
    25 狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。──【主】は言われる。」

  • イザヤ書65章17~19節までを読むと、ヨハネの黙示録21章1節と同じように、「新しい天と新しい地」が創造され、同時に、「エルサレム」も創造されて、それを喜びとし、神がご自身の民を楽しみとするとあります。しかし20節から記されている内容は、明白に「千年王国」のことです。基本的には旧約聖書の預言はメシア王国(千年王国)に関するものであり、黙示録21章の「新しい天と新しい地」と表現が同じであったとしても、その内容は異なっています。千年王国の祝福と永遠の御国には多分に共通したものがあります。しかし、黙示録21章と22章に記されている永遠の御国の内容は、旧約にはない、新約独自の預言が含まれています。それが「天から下ってくる新しいエルサレム」という創造物です。
  • もし、イザヤ書の「新しい天と新しい地」の創造が、黙示録21~22章と同じくする啓示であったとしても、旧約では時系列の異なる内容が隣り合わせに記されていることがあります。例としては、ゼカリヤ書9章9節と10節の場合、9節ではメシアの初臨が、10節ではメシアの再臨が隣り合わせになって記されています。そのように考えるとすれば、イザヤ書65章17~19節には永遠の御国が、20~25節には千年王国が、逆の時系列で記されているということになります。それにしても、黙示録21章には、旧約(イザヤ)にはない新しい啓示である「新しいエルサレム」を、ヨハネは見て、それを書き記していると考えられます。神の救いの最後のステージの焦点は、漠然とした「天国」ではなく、この「新しいエルサレム」という概念なのです。
  • 「新しいエルサレム」のことをヘブル語では「イェルーシャーライム・ハハダーシャー」(יְרוּשָׁרַיִם הַחֲדָשָׁה)と言います。
  • 「新しい」というギリシア語は「カイノス」(καινός)という形容詞が使われています。ギリシア語には「新しさ」を表わす二つの用語があります。一つは、単に時間的な新しさを意味する「ネオス」(νεός)で、たとえば今新しいパソコンであっても、しばらくするとまた新しいパソコンが出てくるようなものです。同じものがそれ以前にいくら存在しても、新しければ「ネオス」でさしつかえないのです。しかしもう一つの「カイノス」(καινός)は、古きものとの関連において、質的に、全く新しいという意味であり、年月を経ても、新しいことには変わりがないことを強調する語彙です。従って「新しい天と新しい地」とは、古いものが変化し、刷新されて、新しくなったということではなく、全く新しく創造されたものであることを意味します。
  • 「以前の天と以前の地は過ぎ去り」とは、黙示録20章11節にもあるように、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」ことを意味します。天地創造以来、歴史が展開されてきた舞台、アダムとエバ以来、人間が生まれ死んでいった舞台、サタン (竜)とその軍勢が最後の反抗を試みた舞台、それらは、「大きな白い御座」の出現とともに御前から完全に、あとかたもなく消え去った舞台としての天と地。Ⅱペテロ3章10節にも「・・その日には、天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」と預言されています。イェシュアも「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)と言った「天地」です。これらの天と地がすべて消え去った後で、創世記1章、2章のように、神は「新しい天と新しい地」を創造するのです。ヨハネはそれを見たのでした。使徒ペテロも「しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:13)と記しています。千年王国においてはメシアが正義をもってすべてのものを統治されましたが、永遠の御国においては、「正義」(=「義」ディカイオスネー)そのものが自分の家を建てるのです。なぜなら、すべてのものが神との正しいかかわりをもって存在するところだからであり、時間に支配されることのない神と人との永住の家だからです。

(2) 神はなぜ「天と地」にこだわるのか

  • ここで、ひとつの突っ込みをしたいと思います。それは、創世記1章1節で、「初めに、神は天と地を創造した」とあります。黙示録21章でも「新しい天と新しい地」が、以前の天と以前の地に代わって登場します。なにゆえに、「天と地」なのでしょうか。「新しい天」で神と人が永遠に住むだけではだめなのでしょうか。なぜ「地」が必要なのでしょう。しかも黙示録21章では、聖なる都、新しいエルサレムが、わざわざ「神のみもと」である「新しい天」から出て下って来るのです。どこに下って来るのか、その下ってくる地点について、聖書は何も記していませんが、その地点は「新しい地」、おそらく聖書の舞台となった中東にと考えるのが自然です。
  • 最初の創造にも、最終の創造にも、「天と地」がワンセットなのです。神がご自身のかたちに似せて人をお造りになり、交わりを持とうとされた舞台の神秘がそこに隠されています。神と人とが共に住む地の現実は、最初は「エデンの園」でしたが、最終は「メシア王国」です。しかしこの本体は、つまり、「エデンの園」から「メシア王国」の本体は、「聖なる都、すなわち新しいエルサレム」なのです。

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(3) 「もはや海はない」

  • さらに、「新しい天と新しい地」においては「もはや海はない」とあります。なにゆえに、「海」がないことが特筆されているのでしょうか。今日の科学では「海」は「地球でいのちが初めて誕生した場所」とされていますが、聖書が意味する「海」にはそうした概念はありません。黙示録13章1節に「また、私は見た、から一匹の獣が上ってきた」とあるように、海は獣の出現の場所です。フルクテンバウム博士は、この「海」を「異邦人国家の象徴」の比喩だとしています。「海」はまさに神に敵対する者の巣窟です。ですから、新しい世界には「海」がないのです。
  • 「獣」とは、サタンから権威と力を与えられて、聖徒たちを踏みにじり、神を罵った反キリストのことです。つまり、聖書は「海」を悪魔的なものとして描いています。海は、常に動揺し、人を寄せつけず、不気味で、奇怪で、危険極まりない狂暴さと死を連想させます。また、混沌と無秩序、破壊的な力の象徴でもあります。そうした「海」が「もはやない」のが、新しい天と新しい地です。現代に生きる私たちには容易に想像し得ない世界ですが、「新しい天と新しい地」についての光景は、必ずしも、聖書に明白に描写されているわけではありません。天国がどういうところか、残念ながら、聖書にはその概略しか記されていません。しかし、そこは、神と人とが愛のうちに永遠に共に住む究極的な世界であることは間違いありません。

2. 私は見たー「聖なる都」「新しいエルサレム」が天から下って来るのを

黙示録21章2節
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

(1) 天から下ってくる「聖なる都」「新しいエルサレム」

  • ヨハネは「私はまた、・・見た」と記しています。何を見たのかといえば、「聖なる都」、すなわち、「新しいエルサレム」です。それが「天から下ってくる」のをヨハネは見ています。この「天」について、メシアニックジューのA・フルクテンバウム師は「第三の天」のことだとしています。使徒パウロはこの「第三の天にまで引き上げられた」ことをコリント人への手紙第二12章で記しています。しかも、その「第三の天」が「パラダイス」であることをうかかわせる記述をしています(Ⅱコリント12:4)。それはコリント人への手紙(第二)が書かれる14年前の出来事のようですが、パウロの年譜から推測すると、14年前とはパウロが回心した後、タルソに帰って生活していた頃です。つまり、パウロがバルナバに見出されて、アンテオケにおいて本格的な働きをする前の頃です。そのパウロがガラテヤ書4章26節では「上にあるエルサレム」、ヘブル書12章22節では「天にあるエルサレム」と表現しています。これらはいずれも同義であると考えられます。興味深いことに、これがイェシュアの言われた「父の家」(ヨハネ14:1)だとも解釈することができます。いずれにしても、信仰の父アブラハムはこれを待ち望んでいたようなのです。
    「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」(ヘブル11:10)

(2) 「聖なる都」「新しいエルサレム」の構成員

  • その「都」である「新しいエルサレム」が、神のみもとを出て、天から下ってくるのをヨハネは見ました。ということは、「聖なる都」である「新しいエルサレム」はすでに神によって造られて、存在していたことになります。それが新しい地に下って来るのです。しかも、それは「花嫁のように整えられて」とあります。
  • キリストの花嫁なる教会は、すでにキリストの空中再臨によって引き上げられています。ですから、黙示録21章にある「聖なる都、新しいエルサレム」は同じく「花嫁のように」と表現されていたとしても、「教会」とは異なります。その都には、あらゆる時代のすべての神の子らが、神に贖われたすべての人々がいると考えられます。それらの人々は、古い天と地が消え去った時に、瞬時にして最後の審判も素通りして、神のみもとに集められると考えられます。その聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように美しく整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのをヨハネは見たのです。そして、その光景の霊的な意味を語る声をヨハネは聞いたのです。

3. 私は聞いたー「御座から出る大きな声」を

黙示録21章3 節
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

(1) 神の幕屋が人とともにある

  • 御座から出る「大きな声」(黙示録には21回あります)は、その後に述べられている啓示がきわめて重要であり、権威あるものであることを示唆しています。この声は、「見よ。神の幕屋が人とともにある。」と語っています。このことが聖書における神と人のかかわりの姿です。「幕屋」とは神と人が共に交わる場であり、それが歴史的展開とともに、幕屋から神殿(主の宮)となり、神殿からからだとしての教会、そしてメシア王国となり、聖なる都となっていきます。これらすべては天における本体としての「神の家」の写しなのです。神が天と地を造られた目的は、神と人とが住む場としての「家」を造るためでした。しかしそれがサタンによって妨げられたために、神は再び、新しい天と新しい地を創造されたのです。そこでは、神が人とともに住み、人は神の民となるのです。人に対する神の最高の約束は、神との永遠の親しい交わりの家に招かれることなのです。
  • そこにおいては、21章1節の「海がなくなる」だけでなく、以下のように、すべてのことが新しくされます。なくなるものが七つあります。

    黙示録21章4節
    彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

  • 「以前のもの」とは、「プロートス」(πρῶτοςの複数)で、「第一のもの、最初のもの」。すなわち、古い秩序の天と地を意味し、やがて、新しい秩序にとってかわられるものです。

    (1) 海がなくなる(21:1) ・・・・・・・「サラッサ」(θάλασσα)
    (2) 死がなくなる(21:4) ・・・・・・・「サナトス」(θάνατος)
    (3) 悲しみ(悲痛)がなくなる(21:4) ・・「ペンソス」(πένθος)
    (4) 叫び声がなくなる(21:4) ・・・・・「クラウゲー」(κραυγή)
    (5) 苦しみ(痛み)がなくなる(21:4) ・・「ポノス」(πόνος)
    (6) のろわれるものがなくなる(22:3) ・「カタセマ」(κατάθεμα)
    (7) 夜がなくなる(22:5) ・・・・・・・「ヌクス」(νύξ)

黙示録21章5節
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

  • 5節で語っているのは、「御座に着いておられる方」です。千年王国の終わりに、メシアなるイェシュアが父なる神に国の統治権をお渡しになっています。「なぜなら、キリストの支配は、すべての敵がその足の下に置くまで、と定められているからです。」(Ⅰコリント15:24~25)。従ってここで語っている方は、一見、父なる神であるように思われます。しかし次節の6節を見ると分かるように、語っている方が「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。」という自己宣言をしています。これは1章8節で、キリストが同じ称号で紹介されていることを考えるならば、キリストも同時に御座に着いておられると考えられます。

(2) 三つの宣言

  • 「御座に着いておられる方」が語っていることは、三つあります。
    その第一が「見よ。わたしはすべてを新しくする。」という宣言です。このフレーズは旧約においても、新約においても常に語られてきましたが、この宣言こそ、神にしてできる宣言です。人間による変革は絶えざる改革でしかありませんが、主なる神こそ絶対的な一新をはかることのできる方です。Ⅱコリント5章17節に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」という新生の事実は、究極的には、この新天新地において完全なものとなるのです。そのときの私たちのいのちの輝きはいかばかりでしょうか。
  • 第二は「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」という宣言です。「これらのことば」とは3節、4節で語られている内容です。あるいは、黙示録全体とも言えるかもしれません。そこに書かれていることは、夢物語でも、妄想でもなく、信ずべき事柄であり、真実であると宣言されています。「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)とイェシュアは疑い深い弟子のトマスに言われましたが、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)。黙示録22章6節でも、御使いが「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」とたたみ掛けています。

黙示録21章6節
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」

  • 第三は「事は成就した。・・・わたしは、渇く者には、いのちの水から、価なしに飲ませる。」という宣言と約束です。「事は成就した」、原文は「(これらは)なった」という3人称複数の完了形で書かれています。イェシュアが十字架上で最後に語られたことばは、「完了した」ということばでした。これはイェシュアに与えられた使命(働き)が完成されたことを示す「テレオー」(τελέω)という動詞(受動・完了形)が使われていますが、黙示録21章6節の「成就した」という動詞は「ゲゴナン」(γέγοναν)という「ギノマイ」(γίνομαι)の現在完了複数形が使われています。それは神が約束された数々のことば(諸々の御旨)がことごとく実現したという「預言的完了形」です。これから起こる事ではあるのですが、聖書では、それが確実に起こる場合に「預言的完了形」で表わすのが常です。つまり、「事は成就した」とは、「これらの事が起こることがすでに決定されている」というニュアンスを含んでいます。だれもそれを翻すことはできないのです。すべてのことが神から発して、神によって、神が完成させるのです。
  • その証拠のひとつとして、「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」ということばで代表させています。この約束はイザヤ書55章1節、および、ヨハネの福音書4章13~14節で語られている招きの成就と言えます。黙示録7章17節においても、反キリストによる大患難時代において殉教した聖徒たちの群れに対して語られた約束の成就でもありますが、「いのちの水」そのものが、神ご自身を意味しています。それは尽きることのない神との親しい交わりを象徴しています。

イザヤ 55:1
ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。
ヨハネ 4:13
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
黙示録 7:17
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。

  • このように、約束された内容は同じであっても、その語られた時点は時間的にそれぞれ遠く離れています。しかし、神の約束(真実)は、長い時間の流れを貫いて確実に実現されることが分かります。

黙示録21章7節
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

  • 「勝利を得る者」とは、栄光を受けるあらゆる時代の聖徒たちであり、彼らに対する祝福は、「これらのものを相続する」ことです。「これらのもの」とは、神が備えてくださっているすべてのものを意味します。神の子とされた者は、朽ちることのない、神のすべての祝福を相続するのです。

黙示録21章8節
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。

  • そうした神の聖徒たちとは対照的に、キリストに対する不信仰のゆえに、悲しむべきものを相続する者たちもいることが付け加えられています。その相続とは、火と硫黄との燃える池の中に投げ込まれる「第二の死」です。

4. 御使いは「私に見せた」-「聖なる都エルサレム」を

黙示録21章9節
また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」

  • ここから話の内容が変わります。ヨハネは高い山に連れて行かれて、「小羊の妻である花嫁としての新しいエルサレム」を見せられます。「聖なる都」「新しいエルサレム」が、ここでは「小羊の妻である花嫁」と言われています。つまり、ここでは、未来における聖徒たちの永遠の住まいである「新しいエルサレム」が、美しく着飾った「花嫁」にたとえられているのです。ここで、キリストの花嫁である教会と混同してはなりません。この時点における都には、あらゆる時代の聖徒たち(大患難時代に救われた人々、千年王国時代に救われた人々、そして教会も含まれている)が、神と共に永遠に住む家として天から新しい地に降りてきたものだからです。

黙示録21章10節
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。

黙示録21章11節
都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。

  • 「聖なる都」「新しいエルサレム」の特徴は、神の栄光の輝きがあることです。その輝きは宝石に似ており、透き通った碧玉のようであったと記されています。                     
      

ベアハリート

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  • ここからの話は、聖書から離れます。私たちの住んでいるこの地球の内部を見た者はだれもいません。もし、この地球を真二つに分けたとしたら、その切断面はまぶしく白く輝いているはずだと言われます。なぜなら、そこには高圧と高熱による熱放射といわれる光があるからです。物質は熱くなることで光を放ちます。ですから地球の内部は白く輝いているのです。もしその熱を取り除くことができれば、そこには輝く宝石でいっぱいの光景を見ることができるはずだと言われます。もし私たちがそこへ行くことができるならば、宝石箱の中に暮らすようなものです。
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  • 地球の中心部には鉄でできたコア(中核)があり、それを包む鉄が溶けた液体のような部分があり、その外側をマントルという硬い石が覆っていると言われます。そこに宝石が多くあると言われています。地球の長い歴史の中で繰り返される地殻変動によって、時折、地表に出てきた溶岩の中に宝石と言われるものが含まれているらしいのです。つまり、何百キロという地下深くにはそうした宝石が多く存在しているのだそうです。これはYou Tubeの「地球の中心コアへの旅」からの情報ですが、私たちが未だ見たことのない世界がこの地球にも多くあるとすれば、神のもとから新しい地に降りてきた聖なる都が地下深くのマントルにある宝石で飾られていたとしても、決して驚くに当たりません。つまり言いたいことは、私たちの住んでいるこの地球でも知らないことが多くあるとすれば、神の世界についてはなおさらのことです。私たちの想像を越えるようなことがあっても少しもおかしくありません。重要なことは、神が語られることは「真実である」と信じることなのです。
  • 「聖なる都」「新しいエルサレム」については(21:9~22:5)、再度、次回で学ぶことにしたいと思います。

2014.3.24


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