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新しい天と新しい地 (3)

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15. 新しい天と新しい地 (3)

なぜ神は「12」にこだわるのか

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【聖書箇所】ヨハネの黙示録21章10節~22章3節

ベレーシート

  • 前回、同じ聖書箇所から、「天から下ってくる新しいエルサレム」という概要について学びました。木曜の「突っ込み聖書研究」ではヨハネの黙示録7章を学びました。そこは、第六の封印と第七の封印の間に挿入されている間奏曲的な部分ともいうべき箇所ですが、「額に神の印を押された神のしもべたち」のことが記されています。イスラエルの各部族から1万2千人ずつ、それが12の部族で合わせると14万4千人です。これらの人々はやがて新しい天から新しい地に降りてくる「聖なる都エルサレム」の構成メンバーです。
  • なぜ12部族なのか(ただし、黙示録7章にはダン部族が入っていませんし、また、なぜ入っていないのか説明もされていません)。なぜ1万2千人なのか。1万2千人は「12」の千倍です。その数にいったいどんな意味があるのか。「12」は「神の永遠の完全数」だという表現があります。しかしその表現では、なぜその数字が永遠に完全なのかを説明していません。その謎を解く前に、「12」にかかわる箇所を聖書からもう少し拾ってみたいと思います。

旧約聖書では
(1) ヤコブの12人の息子たちと、そこから生じるイスラエルの12の部族。
(2) 約束の地の偵察のためにそれぞれの部族から派遣された計12人の者たち。
(3) 荒野の旅の途上のエリムという町で見出された12の泉。
(4) 約束の地に渡って行った最初の宿営の地ギルガルに記念の石として据え置かれた12の石。
(5) 大祭司が着る服の胸に着けるエポデに埋め込まれた12の部族を表わす宝石。
(6) ダビデが12の二倍である24の組に分けた神殿で仕える祭司の組織。

新約聖書でも、この「12」という数は受け継がれます。
(1) イェシュアが選んだ12人の使徒(弟子)。
(2) イェシュアが12歳の時の出来事―巡礼先のエルサレムで両親とはぐれたことで、わたしは必ず自分の父の家
にいるという真理を両親にはじめて明かされた出来事。
(3) 黙示録では、神の御座の回りに12を二倍した数の長老たち。額に神の印を押されたイスラエルの12部
族から各1万2千人(合計14万4千人)、「聖なる都」(新しいエルサレム)にある 「12の部族の名前」のみならず、「12の門」「12人の御使い」「12の土台石」「12の真珠」「12使徒の名前」、そして「12種の実」、さらには、「1万2千スタディオン」、「12の12倍の144ペキス」。

  • なぜ、これほどまでに、神は「12」にこだわっているのでしょうか。人や部族や物などの「数」、あるいは「長さ」といった単位は異なっても(120歳という年齢もありました)、12というのは同じです。とても不思議に感じないでしょうか。今回はその秘密について、もうひとつ黙示録21章24, 26節、22章2節にある「諸国の民」とはいったいだれのことか、そのことについても触れてみたいと思います。

1. 全イスラエルの回復の秘密としての「12」

  • 「12」という数についてもう少しこだわってみたいと思います。イスカリオテのユダがイェシュアを裏切ったことで、使徒の数は十一となりました。そこでペテロはイェシュアの公生涯にいつも行動をともにした者たちの中から使徒職の地位を継がせようとして、マッテヤという人物を選んでいます。なぜ12という数は欠けてはならないのでしょうか。それは一言でいうならば、その数には「全イスラエルの回復」という神の計画がかかっているからです。
  • 「12」という数はイスラエルの歴史において深い意味を持っています。ヤコブの十二人の息子たちと、そこから生じるイスラエルの12の部族。約束の地の偵察のためにそれぞれの部族から派遣された計12人の者たち。荒野の旅の途上のエリムという町で見出された12の泉。約束の地に渡って行った最初の宿営の地ギルガルに記念の石として据え置かれた12の石、大祭司が着る服の胸に身に着けるエポデに埋め込められた12の部族を表わす宝石。ダビデは神殿で仕える祭司の組織の12を二倍にした24の組に分けています。旧約聖書の12の小預言書、そしてこの「12」という数は新約においても受け継がれます。イェシュアが選んだ12人の弟子(使徒)に始まって、12年間長血をわずらった女の癒しと会堂司ヤイロの12歳の娘が生き返った奇蹟。五千人の給食で余った12のパンかご。ヨハネの黙示録では、神の御座の回りには12を二倍した数の長老たち、また、12の部族のそれぞれにつき1万2千人の、合計14万4千人に神の刻印が押され、その者たちが神を礼拝しています。新しいエルサレムにおいては、12の部族の名が刻まれた12の門、聖なる都の12の土台には12の使徒の名が刻みつけられています。そして、新しいエルサレムには年に12回実を結ぶいのちの木があります。これらはみな全イスラエルが回復するという御国の福音の成就であり、神のご計画の実現を表わす象徴的な数なのです。その大きな神のご計画の枠の中に異邦人を含む和解の福音、恵みの福音があるのです。
  • このように「12」という数は、「全イスラエルの回復」と大いに関係があると同時に、この数は「神が望まれる象徴的な数」とも言えるのです。言い換えれば、「12」は神のお気に入りの数字だということです。というのは、「望む」というヘブル語は「アーヴァー」(אָוָה)ですが、そのゲマトリアは「1+6+5」で「12」となるからです。「望む」と訳されたヘブル語の「アーヴァー」(אָוָה)の本来の意味は、「欲する」「むさぼる」といった人間のむき出しの欲望を表わしますが、この言葉が神に使われる例として、詩篇132篇13~14節を見ることができます。

【新改訳2017】詩篇132篇13~14節
13 【主】はシオンを選びそれをご自分の住まいとして望まれた。
14 「これはとこしえにわたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。

  • ここではダビデが全イスラエルを統一するための拠点としたシオンを、神がご自分の住まいとして「望まれる」という意味で使われています。それ以来、「シオン」はきわめて重要な場所となりました。シオンは「エルサレム」の雅名でもあります。その理由はそこに神と人とが永遠に住むことを主が望まれたからです。つまり、全イスラエルの回復はシオンと呼ばれるエルサレム以外にはあり得ないのです。


2. 新しい地における「諸国の民」とは

  • 聖なる都、新しいエルサレムは、どこもかしこも「12」で満ちた町です。門も、そこにいる御使いも、その門に記されている部族の名前も、土台石も、城壁の厚さも、門にある真珠も、そして都に流れるいのちの川の両岸にあるいのちの木が実らせる実も、すべてが「12」でした。新しいエルサレムは、御父と御子が造られた家です(黙示録では御父と御子という言い方ではなくて、御座におられる方と子羊という言い方をします)が、その家に招かれ、そこに住む者とされた人々は幸いです。
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  • この「都」には「これを照らす太陽も月もいらない」とあります。というのは、かつての幕屋や神殿の至聖所がそうであったように、聖なる都、新しいエルサレムでは、神の栄光の光が都を照らし、子羊が都の明かりなのです(21:23)。
  • ところで、新しい地においては、都の中に住む者と、都に礼拝しに来る都の外で住む人々がいるようです。皆が皆、新しいエルサレムという都に住んでいるのではないようです。以下の聖書の箇所を読んでみましょう。

【新改訳2017】黙示録21章24節~22章2節
24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。
22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。


●22章2節にある「いのちの木」(単数)の「実」と「葉」について、前者は食用として、後者は薬としての機能を持っています。永遠のいのちを与えられているなら、「いのちの木」はもはや必要がないはずではないか。また、もはや病も死もないなら薬は必要ないはずではないかと思われるかもしれません。しかしいのちの木がここに置かれているのは、神のすべての創造のわざ、堕落とあがないのすべての歴史を思い起こさせるためであり、同時にそれは、完全ないのちの保証を与えるという象徴的な意味合いとして置かれていると考えられます。

  • さて、2節にある「諸国の民」とはいったいだれのことでしょう。実は、ここの解釈は難しく、人によって解釈が分かれるところですが、ここは、聖なる都、すなわち、新しいエルサレムに入ることのできた人々としたいと思います。
  • 新しい地においては、その中心は新しいエルサレムです。そこでは神と人とが共に住む中心地です。しかし、新しいエルサレムの門は常時開かれており、そこは出入り自由です。いのちの書に名が記されている人々は、自由にそこを出て、他の地で暮らすことは可能です。新しい地においては、人々は神から与えられた「都の光」(神の栄光の光)によって歩み、それぞれに与えられた能力を私たちの想像をはるかに越えた域で活かすことができるはずです。そしてそのような場を地上に求め、新たな文化を築くことができるはずです。ですから、永遠の御国では何もすることがなくて退屈ということはあり得ません。子どもが疲れを知らず、夢中になって遊んでいるように、永遠の御国の人々は、永遠の聖なる創造的な遊びに興じることができるのです。人間に与えられている創造する喜びを感じながら生きるのです。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)が実現する世界です。
  • 新しい地に住む者たちは、朽ちないからだを与えられているため、常に活動できる状態にあります。御使いと同様に眠る必要がないのです。新しい都の外では、おそらく太陽も月もあると考えられます。なぜなら、「都には夜がない」とあえて書かれているからです。もし、新しい都の外も太陽や月がなければ、そのように書き記される必要はありません。都の中には「夜」がないのです。「夜」がないとは、もはや眠る必要も休む必要もないという意味でもあります。諸国の民は、その「都の光」によって歩むとあります(21:24)。それは、例えて言えば、人は好きなことをしている時には時間を忘れるだけでなく、疲れも覚えません。むしろ快感物質であるドーパミンが常に働いて楽しいのです。ですから、都の外の地に広がった人々は諸国の民の栄光と誉れとを、中心地である新しいエルサレムに携えて来ることができるのです(黙示録21:26)。
  • 十戒を記している出エジプト記20章6節にはこう記されています。
    「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」と。「千代の恵み」とはどういうことでしょう。「千代」と「千年」とは違います。「千年」は文字通りの「千年」です。しかし、「千代」とは世代の交代です。マタイの福音書1章にはアブラハムからイェシュアまで(省略されているものもあります)を42代(14×3)としています(ちなみに「14」は「ダビデ」の三つの文字(דּוִד)を数にして加算した数)。ではアダムからイェシュアまでは何代でしょう。ある計算によれば、76代だそうです。しかもその間の年月は四千年です。四千年で76代です。とすれば、千代というのは途方もない年数になります。
  • 神の約束は「恵みを千代にまで施す」というものです。もし人が、実際に「千代」を経過する可能性がないとしたら、主はそのような約束はなさらなかったはずです。この主の約束は千年王国ではなく、永遠の御国においてはじめて実現されるのです。聖書が意味する「千代」とは時間的概念ではなく、時間を超越した永遠の概念と言えます。事実、「千代」と訳されたヘブル語は「千年」を意味する「エレフ」(אֶלֶף)の複数形「アラーフィーム」」(אֲלָפִים)で、「幾千倍」とも訳せるのです。つまり数を表わす語彙でありながら、数量的な時間という概念を越えた世界を示唆しているのです。
  • 「エレフ」(אֶלֶף)は「アーレフ」(אָלֶף)と同じ語源をもった語彙です。そもそも、ヘブル語の「アーレフ」(א)という文字それ自体が、すべての本源である「神」を表わしています。つまり「幾千倍」を意味する「アラーフィーム」(אֲלָפִים)は、「無限、永遠」と同義なのです。そうした世界で私たちは喜びと楽しみを味わうことができるのです。永遠の御国は決して退屈な世界ではなく、神から来る聖なる快感物質であるドーパミンの溢れている喜びの世界と言えます。その世界こそが、神と人とが共に住む永遠の家なのです。詩篇90篇の作者モーセは「主よ。あなたは代々にわたって、私たちの住まいです。」と告白しています。そしてその住まいに「人の子らよ、帰れ。」と語る主のことばを記しています。この主の呼びかけの愛の深さを、感謝をもって、受け留める者とさせていただきたいと思います。


2014.3.14(2018.10.27 改訂)


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