旧約聖書におけるディアコニア <2>
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C-03. 旧約聖書におけるディアコニア <2>
(2) 貧しい者、奴隷に対する福祉規定
① 貧しい者に対する負債の免除(15章1~11節)
- 七年目ごとの負債の免除は、すべての負債が七年目にゼロになることではなく、その年の収穫からは取り立てられないという意味である。なぜなら、七年目は安息年だからである。
- 「・・貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立てては ならない。主が免除を布告しておられる。・・そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなる であろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。」(15章2節、4節)
- 町囲みの内に貧しい兄弟がいる時、困窮している兄弟に対して「あなたの心を閉じてはならない.また手を閉じてはならない」(7節)。心を「閉じる」とは、貧しい者を見ると貝のように警戒して即座に自分を「固くする」ことである。「手を閉じる」とは、持っているものを握り締めて離さないこと。そうではなく「進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを(必要なだけ)十分に」快く貸し与えなさいと言われる(8節)。
- 免除の年が近付いていることから、邪念をもって、貧しい兄弟に対して「物惜しみして」「目をつぶり」与えることなく、自分を守り、そのために貧しい者「主に訴えるなら,あなたは有罪となる」とある(9節)。従って、「必ず彼に与えなさい」と命じられている.与える時も決して「心に未練を持ってはならない」。報いを求めず進んで行う心からの愛をもって与えることが命じられている.このことにより、神はその者のすべての働きと手のわざを祝福してくださると約束しておられる。
- この福祉規定は「あなたがたの中に貧しい者がないように」(4節)するためである。と同時に、「貧しい者は国の中から絶えることはない」(11節)とも記されている。ここに理想と現実のギャップがある。しかしこの4節と11節のギャップを埋めるものは「分かち合いの精神」である。
- 8節に「貸し与える」ということばが出てくる。ただ与えるのではなく、貸し与えるのである。貸すことであって、そのまま与えるということではない。困窮している者がやがて自ら独立できるように、貸し与え、それをもとに取り組んでいけるようにサポートすることである。しかし、貧しい者は努力しても返せないことがあり、そのために安息年という制度が設けられた。どんなに良い制度でも人によって悪用されうる可能性は残る。ここで大切なことは、借りたら返すという考え方が根底にはっきりとあることである。借りたら返すという意識の中でやっていくという考え方が大切にされないとすれば、健全な「分かち合いの精神」を育てることは難しいと思われる。
② 奴隷に対する人格的な扱い(15章12~18節)
- ここで「奴隷」ということばが登場するが、現代でいう「雇用関係」と考えるほうが正しい。売買による奴隷ではなく、契約による「住み込み雇い人」である。確かに、貧しさのゆえに身を売らなければならない状況が生じたと思われる。そうした同胞に対して、人格を認め、雇用契約が交わされた。七年目には自由の身となり、自分の意思表示をすることができた。
- 七年目に自由の身となり、雇用関係から自由になる場合、何も与えずに去らせてはならない。雇用の働きによって得た収益を神からの祝福として、その奴隷に対し、これからの生活保証となるものを与えて去らせる義務があった。もし、本人が七年目になっても主人のもとを去りたくないという場合、いつまでもそこにとどまり仕えることができる。去るかとどまるかは、主人の意志ではなく、奴隷本人の自由意志によって決められるところに、この世の倫理的対照がある。
- まさに、この箇所には、聖書の示す雇用関係の美しさを見ることができるのである。このことは、今日のクリスチャンのビジネス経営ということを考えるとき、その経営理念に大きな影響を与えることになる指針といえる。
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