****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

望みのあるうちに

文字サイズ:

箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

30. 望みのあるうちに

【聖書箇所】19章18節

ベレーシート

  • 箴言19章には、「父と子」のかかわりについての格言がいくつかあります。以下がその箇所です。

【新改訳改訂第3版】
13節
愚かな息子は父のわざわい。(前半)

26節
父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、
はずかしめを受ける子である。

18節
望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。
しかし、殺す気を起こしてはならない。

20節
忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。
そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。

27節
わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。
そうすれば、知識のことばから迷い出る。


●上記と関連する節として、14節があります。

14 節
家と財産とは先祖から受け継ぐもの。
思慮深い妻は【主】からのもの。

●「家」も「財産」も、究極的にはいずれも主から与えられたものですが、ここでは継承すべきものと、継承できないものがあることが強調されています。特に、「思慮深い」(賢い、悟りのある、眼識のある)妻は、完全に主から与えられるものです。このような妻が与えられなければ、夫(父親)だけでは主を恐れることを子どもたちに教えることはできません。その意味で妻(母親)の存在は重要なのです。今日でも、ユダヤ人の母親の多くは教育ママだと言われています。


1. 19章18節が警告していること

  • 上記で取り上げた箇所の中で目立つことは、「愚かな息子は父にとってわざわいとなる」ということです。そうならないための知恵が18節に語られています。それは、「望みのあるうちに」、父は自分の子をさとし、懲らしめることが不可欠だということです。
  • ここでは誰に対して語っているのでしょうか。二つのことが考えられます。

    (1) 父である自分が自分に対して語っている。
    しかし原文では、「あなたの息子」(「ビンハー」בִנְְךָ)とあることから、自分に語っている意味ではありません。

    (2) 自分の息子に対して、「あなたの息子」を懲らしめよと語っている。もしそうであるとすれば、語っている本人も自分の父からそうされたということになるので、神を恐れる信仰教育は継承されてきていることになります。つまり、子を教育するために少なくとも三世代が想定されていることになります。また、そうするためには、「思慮深い妻(子にとっては母親)」が神から与えられる必要があるということです。

  • ところで、18節後半にある「しかし、殺す気を起こしてはならない。」ということばの意味は何でしょうか。果たして、接続詞の「しかし」という訳語は、この前後関係を理解する上でふさわしいものでしょうか。接続詞の「ヴェ」(וְ)をどのように訳すべきかは、その接続詞の前後にあるフレーズを正しく理解する必要があります。
  • 望みのあるうちに」とは、子どもが小さいうちにという意味で、おそらく12, 13歳頃までのことを言います。それ以上に成長してしまってからでは遅すぎるという意味が含まれています。ですから、子どもが幼い時から、父は神の代理人として自分の子をしつけ、さとし、懲らしめる必要があるのです。後半の「殺す気を起こしてはならない」とは、「望みのあるうちに何の手立ても施さず、無責任に子を放っておいて、その子の一生を台無しにしてしまうようなことがあってはならない。」という意味です。なぜなら、「殺す気を起こす」の原文の直訳は「あなた自身を上げる」(「ティッサー・ナフシェハー」תִּשָּׂא נַפְשֶׁךָ)ですが、「上げる」の「ナーサー」(נָשָׂא)は「赦す」とも訳せるので、この「殺す気を起こしてはならない」とは「自分の責任を放棄して、自分の息子の一生を台無しにしてはならない」ということを意味しているのです。
  • 18節の前半と後半を結ぶ接続詞は、「しかし」とするよりは、「ましてや」と訳す方が、「望みのあるうちに懲らしめること」の重大さと警告性が強調されるように思います。自分の子を懲らしめることがないなら、自分の子を破滅に追いやることになるのです。
  • この格言の背景には、父だけでなく、子の責任も問われています。27節がそうです。

「わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る。」

  • 「知識のことばから迷い出る」とは、破滅を避けることができないことを意味しています。

2. 子を懲らしめる理由

  • 19章22節に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とあるように、両親が自分の子どもを懲らしめるのは、子を愛するがゆえであるというのが聖書の教えです。しかも「変わらぬ愛」です。「懲らしめ」(「ムーサール」מוּסָר)とは「間違った言動を正し、矯正する行為」ですが、愛という土台なしには、18節の「懲らしめよ」(「ヤッセール」יַסֵּר)という命令は真の力を発揮しないことは言うまでもありません。
  • かわいい幼い子どもと言えども、罪の性質を持ってこの世に生まれ、「愚かさは子どもの心につながれている」(箴言22:15)のです。ですから、子どもはたびたび懲らしめを受ける必要があるのです。これができるのは親しかいません。「懲らしめる」ことは教育における重要な部分なのです。
  • 「望みのあるうちに」、手遅れにならないうちに子どもを懲らしめることは、子どもに悪い道を避けさせることができます。そうすることで、子は賢い者となり、親の心に喜びを与える存在となります。また、間違った言動に対して懲らしめを与えることは、子どものうちに知恵を育むことができるのです。

2016.1.23


a:3807 t:2 y:3

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional