****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

枯れた骨が生き返る

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35. 枯れた骨が生き返る

【聖書箇所】 37章1節~38節

 ベレーシート 

  • エゼキエル書の37章はきわめて重要な章です。ここにはこれまでの「全イスラエルの回復の預言」「メシア預言」、そして「預言者の象徴的行為」の三つがはじめて出揃っている章だからです。
  • この37章は、いろいろな機会に聞いたり、読んだり、語って来た箇所です。しかし今回この章を読んで、これまでとは全く異なった理解をさせられています。これまでは「置換神学」、および19, 20世紀の伝道至上主義による「個人的救いの強調」による「理解の型紙」をもって読んでいました。私たちは歴史的産物であるために、教えられて来た「理解の型紙」を無意識のうちに持っています。しかもその型紙が自分の思考を支配していることになかなか気づかないものです。よく「目からうろこが落ちる」という表現を使いますが、それは自分のうちにあった一つの「理解の型紙」が打ち破られた時の経験です。心を柔軟にし、自分の「型紙」を疑ってみることは、神の真理を捜し求める者として身に着けなければならないひとつの資質なのではないかと思います。

1. エデンの園に見られた「創造の原則」

  • 創世記2章に見る「人の創造」には二つの段階があります。

    【新改訳改訂第3版】創世記2章7節
    神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

  • ここには「土地のちりで人を形造る」という創造の第一の段階があります。エゼキエル書37章でも同様に、エゼキエルが預言すると、「骨と骨とが互いにつながり、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった」とあります(7~8節)。しかしその中に息はなかったのです。次の段階として、エゼキエルが息に向かって語ります。「息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」(9節)と。すると、息が彼らの中に入り、彼らは生き返り、自分の足で立ち上った」とあります(10節)。
  • 9節にある「息」は、冠詞付の「ルーアッハ」です。旧約聖書の「ルーアッハ」の使用頻度は389件ですが、そのうちエゼキエル書はイザヤ書についで多く52回です。そのうちで冠詞付は6回のみです。つまり珍しいということです。冠詞付きの「ルーアッハ」はやがてこの世に来られる聖霊なる神を暗示していると言えます。
  • 「その息」が「吹きつけ」られることによって、彼らは「生き返る」のです。新改訳では「この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」となっていて、あたかも命令形が二つあるように訳されていますが、原文は命令形はひとつで「吹きつけよ」です。そうするならば、彼らは「生き返る」(未完了)となっています。新共同訳は原文どおりです。「吹きつける」という動詞は「ナーファハ」(נָפַח)で、創世記2章7節にある「その鼻にいのちの息を吹き込まれた(נָפַח)。そこで人は生きものとなった」の「吹き込まれた」と同じ語彙が使われています。つまり、創造の原則が再びなされようとしているのです。

2. 「枯れた骨」とはイスラエルの全家のこと

  • ここで直接的に語られている「枯れた骨」とは「イスラエルの全家」のことを意味しています。
  • イスラエルの全家にはすでにアッシリヤによって離散した北イスラエルの10部族と南ユダ部族が含まれています。「非常に多くの集団」なのですが、これらに息が吹きかけると、息が彼らの中に入って、彼らは生き返り、自分の足で立ち上ったのです。それだけでなく、神は彼らを彼らの地に住みつかせると約束しています(14節)。21節にはこう記されています。

    エゼ 37:21
    彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く

  • 37章は、イスラエル全家の回復のことが述べられている箇所で、個人的な魂の覚醒や教会のリバイバルを語っている箇所ではありません。にもかかわらず、そのように語られてきたのは、キリスト教の歴史における「置換神学」と「個人的救いの強調」の教えの弊害によるものです。置換神学では「イスラエルの全家」をありのままに理解せず、「私」とか「教会」に置き換えて解釈することで、神のご計画を完全に見失わせてしまう誤った解釈です。そのために、預言者たちが語っている神のご計画の啓示を正しく理解できません。みことばを自分たちに都合の良い形に変えてしまっているからです。預言は私的解釈を施さず、ありのままに理解しなければならないのです。と言う私も、そうした解釈をしてきた一人なのですが・・・。
  • 神の預言はみことばに記されているとおりに実現します。イスラエルの地に全イスラエルが回復するのです。今やすでにそれがはじまっています。そしてこの預言の実現に向けてこれからの世界は動いていくのだと確信します。
  • 神は、このことを「二つの杖が一本の杖につなぐ」(エゼキエル37:16~17)という預言者の象徴的行為によって現わすようにエゼキエルに命じました。一つの杖は「ユダと、それにつくイスラエル人のために」、もう一本の杖は「エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために」で、その両方をつないで、エゼキエルの手の中でこれらを一本の杖とするという行為です。特にこの「一本の杖」は、黙示録7章2~8節に出て来る「14万4千人」、あるいは黙示録11章に出て来る「二人の証人」と考えられます。彼らこそ「御国の福音」を全世界に宣べ伝えるのです(マタイ24:14)。

    画像の説明

●ちなみに、ここで「つなぐ」と訳された原語は、本来、「近づく、進み出る」を意味する「カーラヴ」(קָרַב)ですが、この箇所のみピエル態で使われて、「互いを近づけて」「つなぐ」(joint together)という意味になっています。LXX(70)訳はここに「縛る、結びつける」という意味の「デオー」(δέω)という語を当てています。

3. 王なるメシアの預言

  • 34章、36章でも語られたメシア預言が、37章において再度語られています。

    【新改訳改訂第3版】
    24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。
    25 彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。

  • ここでもはっきりと、「牧者」(羊飼い)が「王」の比喩であることが確認できます。また、メシア王国(千年王国)では、ダビデが復活して、イスラエルの民の君主となることが預言されているのです。

4.  息が吹きかけられて、枯れた骨が生き返る時はいつか

  • それはすでに回復の風は吹き始めていると言えます。そのしるしの一つは、1948年にイスラエルが建国した事実です。1700~1800年の間、世界中に散らされていたユダヤ人が、今やイスラエルに帰還しつつあります。しかし、枯れた骨である「イスラエルの全家」が完全に生き返るのはキリストの再臨の時、すなわち、千年王国(メシア王国)が成就するときです。
  • 9節に「霊よ。四方(אַרְבַּע)から吹き来たれ(בּוֹא)。これらの殺された者たちに吹きつけよ(נָפַח)。そうすれば彼らは生き返る(הָיָה)」(新共同訳)とあります。「四方」(アルバ אַרְבַּע)とは、チェーン式バイブルの脚注には「神の霊が強力に働くことを象徴する表現だ」と説明していますが、その時がいつかについては説明がありません。しかし、マルコの福音書13章26~27節にこう記されています。

    【新改訳改訂第3版】マルコ13章26~27節
    26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
    27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます


2013.7.3


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