残された一縷の望み
14. 残された一縷の望み(イスラエルの回復の預言)
前へ |
【聖書箇所】ホセア書 14章1~9節
ベレーシート
- イスラエル(エフライム)にとっての一縷の望み、それは「主のもとに立ち返れ」と呼びかける主の招きの声です。この招きは彼らに対する主の選びの愛(「アーハヴ」אָהַב)に起因します。これはホセア書が啓示している主の究極的な愛です。忍耐強い主の愛です。この愛にイスラエルは気づくことなく、主を拒絶した結果として、「アッシリヤが彼の王となる」(11:5)という刑罰を余儀なくされます。しかしそれが終局ではありません。刑罰の後に救済の預言が語られているのです。それが14章です。主のもとに立ち返ること、そしてそれによってもたらされる祝福がいかなるものであるかが約束されています。
1. 「主に立ち返れ」との招きの声
1節に「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。」という主の呼びかけがなされています。
- この呼びかけにおいて重要なのは、方向性を示す前置詞「エル」(אֶל)ではなく、「アド」(עַד)が使われていることです。「アド」という前置詞を用いることによって、主の方向に立ち返るというよりも、もっと深く、もっと親しく、主のふところに届くような立ち返りを求めています。そしてそこにしっかりととどまり続けることを意味しています。ですから、単に「主に」よりも、「主のもとに」と訳すべきです。新共同訳はそのように訳しています。
- アッシリヤの捕囚となったイスラエルは離散して、その所在は不明です。しかし、主は彼らを見捨てることなく、やがて終末において「主のもとに立ち返る」ようにと招いておられるのです。主のもとに立ち返ることが彼らに残された唯一の道だからです。ちなみに、14章2節の「主に立ち返り」は「エル・アドナイ」(אֶל־יהוה)と記されています。主に立ち返る際には、言葉を用意して、三つの事柄を告白するよう促しています。
(1) アッシリヤのような目に見える強国には頼らないこと。
(2) 馬(戦車)のような軍事力には頼らないこと。
(3) 手で造った偶像には頼らないこと。●それらは自分たちを救えないことを、心から告白すること。
2. 主の完全な赦し
- イスラエルが主のもとに立ち返って来る前に、主は自ら、二度と破られることのない民との究極的な交わりを築くために、彼らを完全に赦します。それが以下の箇所です。
【新改訳2017】ホセア書14章4節(Hebrew原文は5節)
4 「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。
- この箇所はきわめて重要です。主の赦しの約束こそ「立ち返り」のための一縷の望みなのです。4節にある「背信」(「メシューヴァー」מְשׁוּבָה)をいやし、「自発的な喜びをもって」(נְדָבָה)愛するのは、主の怒りが彼らから離れ去った(「シューヴ」שׁוּב)からです。これら「立ち返り」「背信」「(怒りから)離れ去る」の三つの語彙のすべてに、שׁובという語彙があります。主が怒りから離れて、完全に赦してくださったので、背信していた者たちが主のもとに立ち返ることができるのです。これはイスラエル(エフライム)が自分はできなかったように、人間にはできないことです。ここに神の主権的なみわざがあり、一度選んだ民に対する主の究極の愛が表わされます。このようにして神の民イスラエルは回復し、メシア王国が実現するのです。
3. 自然界に現わされる祝福
- 預言書においては、主と主の民との回復が、以下のように自然界の比喩によって描写されます。
【新改訳2017】ホセア書14章5~8節
5 わたしはイスラエルにとって露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、レバノン杉のように根を張る。
6 その若枝は伸び、その輝きはオリーブの木のように、
その香りはレバノン杉のようになる。
7 その陰に住むものたちは、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふく。その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。
8 エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。わたしが応え、わたしが世話をする。
わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ。」
- 神の民の回復はそのまま自然界の回復につながります。まさにエデンの園の回復なのです。使徒パウロは、自然界の被造物がうめきをもってその時が来ることを待ち望んでいることを記しています。
【新改訳改訂第3版】ローマ書8章19~24節
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。
● ● ●
最後に
【新改訳改訂第3版】ホセア書14章9節
知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。
悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。
主の道は平らだ(「ヤーシャール」יָשָׁר)。
正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。
2015.5.2
a:5886 t:1 y:0