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比類なきお方、御子

第3日 「比類なきお方、御子」 

ー神の栄光の輝き、その本質の完全な顕現者ー

はじめに

1:1
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2 この終わりの時には、御子によって私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

  • 1節から3節までの箇所に、御子について、簡潔でしかも御子についての驚くべき内容が見事に凝縮されて紹介されているのです。御子イエスとはいったい何者なのか、御父とのかかわりにおいて、また私たち人間とのかかわりにおいて何者なのか。これぞ、知っているようで知らないことなのです。分かっているようで分かっていないことなのです。
  • 1~3節で紹介されている御子に関することが、へブル書全体で解き明かされていくわけです。それは新生児が最初に飲む黄色みを帯びた初乳のようなものです。
  • 赤ちゃんが生まれてから、最初に出でくる母乳はものすごく濃い乳だそうです。それは、あまりにも濃過ぎて、赤子以外にはとても飲めるような代物ではありませんが、赤ちゃんはそれをそのまま飲んでしまのですから、驚きです。しかしそこにはものすごく大切なものが凝縮されていると言われます―ちなみに、初乳には後に分泌される母乳に比べて、新生児の免疫力を高めるものが多く含まれているそうです。赤ちゃんは母親の母乳を通して栄養素と抗体を得るわけです。これは神が御子を通して、私たちに必要な栄養素と抗体を得ることのひとつの型です。私たちは、御子を通して、すなわち、神(御父)が御子に与えたすべてのものを、御子を通して得ることができるのです。赤ちゃんが母親を通して必要なすべてのものを得るのと同様です。
  • 1~3節までのテキストの中に、驚くべき凝縮されている御子についての紹介を見てみましょう。濃いのですんなり飲めないほどです。それほどの内容が凝縮されている箇所です。今朝は、濃くても、一気にそれを飲み干してみたいと思います。消化し切れずに、下痢を起こしてしまうかもしれませんが、それでも飲んでみたいと思います。少しでも薄める努力はしたいと思いますが・・・。
  • この箇所を次のように、四つの項目に整理できるのではないかと思います。

    (1) 御子は神の究極的啓示者
    (2) 御子は万物の相続者、創造者、そして保持者
    (3) 御子は罪のきよめを成就し、 神の右に着座された祭司・王
    (4) 御子は神の栄光の輝き、神の本質の完全な顕現者

(1)についてはすでにふれました。ここでは、(2) (3)に絞って見てみましょう。

1. 御子は万物の相続者、創造者、そして保持者

御子は万物の相続者、創造者、保持者

(1)「万物」とは

  • この世界とその中に存在するすべてのもの (目に見えるものも見えないものも、存在するすべて)、つまり、宇宙全体のこと。

(2)「相続者」であるとは

  • 御父のすべて(権威、力、父のもっている膨大な富と栄光)を受け継いだ者、相続の権利を有する者、受け継いだものの所有権を有する者 ― ※それは、神のひとり子(=御子) しかいない
  • 私たちはこの御子イエスによって神の子どもとされるのですが、「もし神の子どもであるならば、相続人なのです。御子を通して神の共同相続人とされるのです。すごいことです。

(3)「創造者」であるとは

  • すべてのものにいのちを与えた方。「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:2) ことばをもって無から有を生じさせた方「『光よ、あれ。』すると光があった。」のごとく。私たちは私たちを造られた創造者である御子とかかわることなくしては、自分の存在の意味もまた存在の使命も見出すことができません。

(4)「保持者」であるとは

① すべてのかかわりを統御(コントロール)し、秩序を保たれる方
② 造られたものに対して、必要のすべてを与えることのできる方
③すべてを支配される方

  • 保持者としての御子のところに私たちがいかなければ、私たちを生かしてくれる人々に出会うことはできせん。私たちはひとりで生きることができないように造られています。依存しうる存在が必要です。自然がそれぞれ相互依存しているように、私たちも人からの理解や、励ましや慰めをもらわなければ生きられないのです。御子はそうしたかかわりを私たちに与えてくれる方です。造られただけでなく、私たちを生かすために、ありとあらゆる環境を備えてくださる方、それが保持者としての務めなのです。

2. 御子は罪のきよめを成就し神の右に着座された祭司

  • 罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」には、私たちが罪人であること、本来の神のかたちを喪失した人間のために、御子イエスがなにをしてくださったか、それが要約されています。
  • 「罪のきよめ」とは、私たちの身代わりによる罪の赦しと神の子どもとしての権利の回復を意味しています。それは御子イエスが十字架にかかることを通して実現しました。罪のきよめは、私たちのために神が備えてくださった痛ましい十字架という出来事によってもたらされました。それによって私たちは、神に、完全に、しかも永遠に受け入れられたのです。それは神の一方的な愛という他ありません。
  • 私たちは御子イエスの十字架の血潮によって、なんらはばかることなく、なんら臆することなく、なんら責められることなく、なんら恐れることなく、大胆に、神の御前に近づくことができるようにしてくださったのです。それは私たちが御子イエスとともに、神の子として喜びを持って生きるためです。私たちの努力ではなく、神の愛がそのようにしてくださったのです。御子イエスの苦しみは、私たちに対する愛の苦しみでした。それは私たちが三位一体の神がそうであるように、互いに愛をもって生きるためです。
  • 御子イエスはさらに、罪のきよめを成し遂げられた後に、「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」それは私たちのためです。私たちのために、大祭司として御父にとりなすためです。私たちの祈りはみなこの御子のとりなしによって聞かれるのです。祈りの最後に、「イエス・キリストのお名前によって祈ります」というのはそのためです。祭司としての働きは、今もなお継続しています。


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