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深い眠りを下された主の守りの中にあったダビデ

23. 深い眠りを下された主の守りの中にあったダビデ

【聖書箇所】 26章1節~25節

はじめに

  • 24章と似たような出来事が記されていますが、このことは何を意味するのでしょうか。サウルはジフの人々の通報によって、またもやダビデを捕えようと精鋭3千人を率いてジフの荒野に向かいました。ダビデはすでにサウルに対して自分には「主に油注がれた方」に対して手を下すことはできないという意志を伝えました。そして、サウルも自分の非を認め、ダビデと誓約を交わしたのです。にもかかわらず、ダビデを捕えようとジフの荒野へと向かいました。

1. ダビデの固持

  • 理不尽なことが二度起こると人間の許容はより難しくなるものですが、ここでのダビデは以前と変わらぬ対応をしています。今度もダビデは「主に油注がれた方に手を下すことはできない」という立場を固持しています。そのことを再度あかしするために、ダビデはサウルの陣営に忍び込み、サウルの枕もとにあった槍と水差しを取っていきます。だれひとりとしてそれに気づいた者はいませんでした。なぜなら、「主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである」(26:12)とあります。サウル王を保護する将軍のアブネルの面子は丸潰れですが、実はここにダビデに対する神のセキュリティがあります。
  • 主イエスの場合、宣教の働きに入られる前に、御霊に導かれて荒野での試みを受けられました。そして悪魔の手を尽くした誘惑を退けられました。しかし、「悪魔はしばらくの間イエスから離れた」だけで(ルカ4:13)、これから何度も悪魔はイエスを十字架の死に至るまで誘惑し続けます。決してその手を緩めることはありませんでした。
  • ダビデの場合も一度成功したからと言って、サウルを通しての神の訓練は終わることはありませんでした。神の代理者としてのイスラエルの王は執拗な神の訓練を通して磨かれていくことを思い知らされます。人は神のために用いられることを願いますが、そのためには、それにふさわしく整えられるための神の訓練があることを受け入れなければなません。忍耐、柔和さ、神への信頼という徳は、厳しい神の訓練(苦しみの炉)をくぐってのみ、実るものだということを。

2.「 深い眠り」と神のみわざ

  • 「深い眠り」と訳されたへブル語は「タルデーマー」(תַּרְדֵּמָה)です。旧約では7回使われています。怠惰は人を深い眠りを陥らせる(箴言19:15)という意味でも使われますが、ここでは創世記2:21や15:12のように、いずれも主がアダムヤアブラハムを深い眠りに陥らせて、その間に神の不思議なみわざをなさるという意味で使われています。アダムの場合はかけがえのない助け手である女が創造され、アブラハムの場合は、神の方が裂かれた動物の間を通り過ぎたことによって一方的に契約を成立させています。
  • ダビデの場合も、サウルとその精鋭たちに主が深い眠りが下されたので、サウルに対する自分の潔白を証明することができたのでした。その結果、サウルをして「おまえは多くのことをするだろうがそれはきっと成功しよう」と言わしめさせたのです。そしてサウルはそれ以来、二度とダビデを追おうとはしなくなったのでした(27:4)。神の不思議なみわざは「深い眠り」と密接な関係があるようです。

2012.7.3


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