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特権を放棄したエサウ

第28日  「特権を放棄したエサウ」

はじめに

  • 「反面教師」という言葉があります。その意味は、一言で言うならば「悪いお手本」です。普通、教師というのは模範的な人格者で、見習うべきものですが、反面教師というのは、「悪いお手本」の実例を通してそうならないようにという意味です。例えば親がタバコを吸う人で、親を反面教師として、自分は吸わないといったように。
  • 今回は、反面教師としてのエサウという人物を通して、私たちは神から与えられた特権を決して放棄してはならないということを学びたいと思います。テキストとしてはヘブル12:15~17です。

    15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちることがないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が怪我されたりすることのないように、16また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。17あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

  • なぜ、このような結果になってしまったのか、これは反面教師として、私たちもエサウの失敗を犯してはならないという警告です。特に、神があなたがたにひとたび与えられた長子の権利を決してないがしろにしてはならない、決して疎んじてはならないという警告、それが今回のテキストの目的です。繰り返して言います。ここで聖書がエサウの長子の特権について述べているのは、長子の特権のすばらしさに目を留めよというメッセージではなく、その特権を失うという危険があることへの警告のメッセージなのです。

1. イスラエルの長子の権利とはなにか

  • そもそも「長子の特権」とは何で、その祝福とはなにかをまずお話ししておいたほうがよいと思います。ギリシャ語原文では、「権利」ということばが複数形になっています。したがって、正確に言うならば、「長子としての諸権利とはなにか」ということになります。その諸権利は三つあります。

(1) 権威ある地位です

  • 普通、長男といえば、男子の第一子、長女といえば、女子の第一子ということになります。長子とは第一子のことで、この場合、女子は含まれません。イスラエルでは女子は長子になることはできませんでした。長子はその家庭において、父の代理であり、弟や姉妹たちの主人的な立場にありました。イスラエルの家庭では、息子たちは年齢と身分の順によって、「長子は長子として弟は弟として」それぞれ定められた食卓の席に着いていました。
  • 20年前、沖縄の教会に奉仕で行った時、金城牧師家庭には3人の男の子と一人の女の子がおりましたが、座る場所が決まっている。第一子の長男が父親のすぐ隣に座り、順番に第二子、第三子と座っていました。これを見た時、これは沖縄の風習なのかと思いましたが、聖書の風習だったわけですね。
  • 「長子」という考え方には、単に先に生まれたということよりも、身分上優れているということの方が根本的なことになっているようです。長子の権利とは、生まれた時間的な順序よりも、むしろ、身分や地位による順序に置かれている祝福の順位とでもいうべきです。でなければ、ヤコブがそれを得ることはできなかったでしょう。

(2) 二人分の相続の分け前が与えられる

①と関連しますが、権威ある立場のゆえに、遺産の相続分は二人分の分け前が与えられました。

(3) 祭司としての務めが与えられている

  • 家族の中で神との間の一切を仕切り、礼拝をし、家族や人々を祝福する立場にあります。新約に生きる私たちはキリストにあってすべての者が祭司としての務めができるようになっています。ですから神を礼拝しますし、人々のために、とりなしたり、神の祝福を祈ることができます。しかしイスラエルにおいてそれができるのは長子のみです。イサクが自分の息子を祝福し、ヤコブも自分の息子を祝福できたのは、彼らが長子という特権を与えられていたからです。
  • 祭司は、神にある祝福を人々にもたらす通路としての存在でした。私たちの主イエス・キリストが天にあるすべての霊的祝福を私たちにもたらすことができたのはどうしてでしょうか。答えはすでに与えられています。それは御子イエスが私たちの長子となられたためです。イエスが私たちの長子でなければ、私たちは天にいる父なる神の祝福にあずかることはできないのです。長子の権利はこのような務めを持っていることを心に留めておきましょう。
  • ところで、エサウの話に戻りますが、彼は長子としての特権を失いはしましたが、依然として父イサクの息子でありつづけたように、新約に生きる私たちも、私たちに与えられている特権がたとえそこなわれたとしても、天の父との関係は解消されるわけではありません。キリストによって死から命に移っているからです。しかし、本来、与えられた長子としての権利を失うことによって、たとえ神の子であったとしても、地上では貧しい生活を送ってしまう危険があるのです。この世において、天にある霊的な富が自分の中に溢れ流れてくるのを経験しないで終わってしまうかもしれない、自分の内からキリストにある豊かさが流れてくるのを経験しないで終ってしまうかもしれません。贖われた真の喜びも、その輝きも、さほど発揮できないで終わってしまう人生を送ってしまうかもしれない。神の子であるもかかわらず、そのことのゆえに与えられている楽しみと喜びを知らずに、この世の流れに押し流されて、それに翻弄される人生を送ってしまうかもしれない。悔いを残すような人生を空しく送ってしまうことになるかもしれない、そんな可能性に対する警告なのです。
  • 私たちはキリストにあって長子として権利を託されています。そして天にある無尽蔵な霊的な富を味わうことができるのです。それなのに、実際には霊的な貧困者となってしまう危険があること、神の王子としての権威ある立場が与えられているにもかかわらず、罪の奴隷となり下がってしまう危険があることをヘブル人への手紙の著者は警告しようとしているのです。 たとえ、神の子としての立場はなんとか保たれたとしても、それとは似つかわしくない姿になってしまう危険があることを警告しているのです。

2. エサウの陥った致命的な過失とはなにか

  • そもそもエサウの陥った致命的な過失とは何だったのでしょうか。このことを知るには、創世記を開いてみなければなりません。創世記25章を読むと、そこにはエサウとヤコブの双子の誕生のことが記されています。

    25最初に出てきた子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名付けた。26そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名付けた。・・27この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。・・・29さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰ってきた。30エサウはヤコブに言った。「どうか、そのあかいのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれる。ーエサウの子孫は後にエドム人と呼ばれるようになります。ー
    31するとヤコブは「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。-ここで長子の権利と言うことばがはじめて登場しますー 32エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ、長子の権利など、今の私になんになろう。」と言った。33それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利はヤコブに売った。34ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

  • このあと、父イサクが自分の余命がいくばくもないことを悟って、長子であるエサウを祝福しようとします。このとき、弟のヤコブを愛していた母リベカも一枚かんでいるのですが、弟ヤコブは、兄エサウが祝福を受ける前に父に獲物をしとめて、きて私にごちそうするために出かけた兄になり代わって、父イサクをだまして長子としての祝福を受けてしまいます。この祝福の行為は、正式な遺産相続としての手続きとしての祝福を意味しており、ひとたびそれがなされるならば、変更することはできない性質のものでした。母リベカがヤコブに「おまえののろいは私が受けるから、私のいうことを聞いて、そのとおりにしなさい」と言い、ヤコブはそのとおりにし、自分がエサウに変装して、祝福を奪ってしまうわけです。
  • しかし今朝のヘブル人への手紙のメッセージは、ヤコブのしたことについては一切ふれていません。エサウが長子の権利というものをどうのように考えていたかということについてのみ触れているのです。ですから、ヤコブのしたことを今朝は取り扱いません。エサウが長子の権利を失った重大な、しかも致命的な過失とは何であったか、それはキリストにある私たちの問題でもあるのだという警告に終始しています。
  • もう一度、エサウが言った言葉を見てみましょう。

    エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」31するとヤコブは「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。32エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ、長子の権利など、今の私になんになろう。」と言った。33それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。34ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」

  • この会話の中に、エサウが何を重んじ、なにを軽んじたかが記されています。「軽蔑した」というヘブル語は「バーザー」בָּזָהです。軽視すること、見下すこと、くだらないものとしてみなすことを意味しています。エサウは長子の権利と言うものをくだらないものとみなし、それを、一時の満足を得るためのものと取り換えたのです。神の定められた最も尊い永遠の特権よりも、一時的な楽しみの方を重要視し、ゆずってはならないものをゆずってしまったのです。
  • 私たちもエサウのように、一時的な益のために、ゆずってはならないものを譲り渡してしまう危険があるのです。弟のヤコブも自己本位な点が多々あったにもかかわらず、神が与える永遠に価値あるものに対してはその価値を認めていたのです。自分には決して与えられない長子の権利の価値に対しては疑いを持つことはありませんでした。
  • それゆえ、すべてを見越しておられる神は、この二人の兄弟が誕生する前からこう宣言しました。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」(マラキ1:2,3、ローマ9:13)ーこれは、神がエサウに対して敵意や憎しみをもたれたという意味ではありません。エサウが長子となるのを、拒絶し、退けられたという意味です。神が与えた長子の権利に対して、彼がそれを軽蔑したために、彼の長子としての立場を退けられたということです。神が「エサウを憎んだ」というのは感情的な意味で言っているのではありません。反対に、神が「ヤコブを愛した」というのも感情的な意味で言ったのではなく、彼に長子の立場をゆだねたという意味です。
  • もし、エサウが自分に与えられた長子の権利を「そんな権利がなんになろう」と軽蔑しなかったならば、長子の権利はそのまま彼のものとなったはずです。神の救いのご計画はヤコブ、すなわちイスラエルを通してではなく、エサウの子孫を通して実現されるはずです。
  • エサウは、自分に与えられた長子の権利を弟のヤコブに奪われたのを知って、泣き、嘆き、父に懇願します。しかし父イサクの態度を変え、事態を撤回することはできませんでした。
  • ヘブル書12章には、「あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」と記しています。この最後に記されている「彼には心を変えてもらう余地がなかった」とは、「エサウは父イサクに心を翻してもらうその余地がなかった」ということです。また中間にある「彼はあとになって祝福を相続したいと思った」という意味は、「祝福、つまり父からの遺産の相続をしてもらいたいと思ったが」という意味です。しかしそのときにはすでに遺産相続の手続きは済んでしまったので、「退けられた」―つまり後の祭りであったということです。イサクは聖霊に導かれ、神の預言者として語っています。神の霊感をうけて語ったことは自分の考えでそう簡単に「取り消して」撤回することなどできなかったからです。
  • エサウは泣いて訴えましたが、「父の心が変わる見込みのないのを知った」のです。しかしその涙は、自分の神に対する不敬虔さを悔い改める涙ではなかったようです。その証拠にエサウは「お父さん、祝福は一つしかないのですか。私を、私をも祝福してください。」とただ泣くだけでした。
  • 永遠的な価値あるものを見下げ、目に見える一時的なものを求めてしまう自分の弱さにエサウは気づいたのかどうか、もともと彼の弱さがそこにあったわけです。今必要なことばかりを求め、永遠の富につながることを軽んじていたことが、ただ結果として現わされたわけです。
  • 私たちはどうでしょうか。永遠につながること、永遠に価値あることを尊んでいるでしょうか。それを自ら大切にしているでしょうか。それとも、一時的な満足、一時的な刺激や快楽、一時的な人からの称賛を求めることで、霊的に価値あるものと交換する危険を冒すようなことはないでしょうか。
  • 未来のものを犠牲にして、現在の満足や自分の思いを優先することはないでしょうか。エサウが得たものは何だったでしょう。一杯のスープです。イエスが言われたように、自分のいのちを愛するものはそれを失う」と。つまり、自分のいのちを大切にしようとするものは、もっと大切なものを失ってしまうということです。エサウはその反面教師です。いのちの道は狭く、それを見出す者はまれだ、とイエスは言われました。

3. 自分の弱点を誇るーキリストの力が私をおおうためにー

  • エサウの苦い経験をもう少しみてみましょう。彼は「飢えていただけではありません。」「疲れていました。」・・エサウが自分の運命を決する誤った決断をしたとき、彼は「疲れていました。」私たちが忙しいことは良いことだと考えます。「忙しい」とは、心を亡ぼすと書きます。「忙しい生活をし、心が疲れているとき」、敵はその弱さを利用して私たちをつまずかせようとします。私たちが弱くなる時、人によってその領域や程度は異なります。

①エサウの場合は「飢え、疲れていたとき」でした。その時が危ない時でした。ですから、ヤコブにそこをつけ入れられたのです。兄は弟ヤコブにその弱さを見抜かれていました。
②最初の殺人を犯したカインは心に嫉みを抱いたときでした。
③ダビデは勝利に酔っているときでした。絶好調の時に生まれた心の高慢が、ウリヤの家に悲しむべきことをもたらしました。
④イエスの弟子ペテロは人を恐れたとき、一人の女中の前でイエスを裏切りました。
⑤アナニヤとサッピラは自分たちの存在価値を人から認められたいと思ったとき、献金をごまかしました。そのことで自分たちのいのちも失いました。

  • 私たちはひとりひとり自分の「弱さ」というものを持っています。戦いにおいて、その戦いの第一線では、戦列の最も薄い部分が破れた時、つまり、弱い部分から破れていくと言われます。私たちの弱い部分において勝敗が決まっていくのです。ですから、自分の弱い部分を知り、そこにイエス・キリストの助けを求めなければなりません。使徒パウロも主から「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全にあらわれるからである」と言われました。
  • 自分の弱さは、人から指摘されている時にはなかなか認めることができないのです。自分で気づかなければなりません。弱さに気づくことは、敗北ではなく、勝利への道です。使徒パウロは、「私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と述べています。「私の弱さを誇る」とはどういうことでしょうか。それは、自分の弱点を知り、それを認め、そこにキリストの助けを求めることによって、自分が守られていくのだということではないでしょうか。弱さを隠すことなく、弱さを弱さとして自ら認めることで、むしろキリストの力が私をおおうということを経験していけるのだと思います。キリストにある勝利を勝ち取ることができるのは、自分の弱点を知り、認めることなのです。
  • 使徒パウロにとっての「弱さ」というのはどういうものだったのでしょうか。皆さんは考えたことがありますか。彼はピリピ書3章で人と比べて自分が誇るところがあるとすれば、これこれのことだと言ってこの内容を記しています。それによれば、彼は、8日目に割礼を受けたれっきとした神の民であること、純粋なヘブル人で、律法については厳格なパリサイ人。その熱心さは教会を迫害したほどで、律法による義についてならば、だれからも非難されるところのない者であることを自慢しています。しかしそれをキリストの知る前のことで、「私にとってかつては得であったようなものは、みな損と思えるようになった」と告白しています。
  • 彼の弱さは何だったのでしょうか。私は彼が人から認められたいという強い思いがあったように思います。人から評価されたいという思いであり、それがキリストを知る前に彼を動かしていた弱さであったように思います。人から良く思われたいという弱さはだれにもあるかもしれません。しかしその程度が問題です。それが人一倍強いと、偽善に陥っていく危険性があります。立派でもない自分をあたかも立派であるかのようにみせてしまうという弱さです。パフォーマンス性の危険があります。それはある人にとっては罠となり得ます。自分の弱さを知ることは決して恥ずかしいことではないことを肝に命じましょう。


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