理不尽なことの中に主の御旨があった
士師記の目次
12. 理不尽なことの中に主の御旨があった
はじめに
- 使徒パウロはローマ8章28節で「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」と述べていますが、「すべてのこと」の中には、私たちが容易に理解できない理不尽な面も含まれているのです。
- 神の救済史的歴史において、神は主権的支配をもってご自身のご計画を進めて行かれます。その主権的支配の中には、不条理な事柄や理不尽な事柄も含まれることを教えてくれるのが士師記16章です。特に14章4節にそのことが記されています。ここでは、4節を中心にこの章を味わいたいと思います。
1. 14章4節の諸訳
- 4節をいろいろな聖書で観てみましょう。
【新改訳改訂第3版】
彼の父と母は、それが【主】によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。
【新共同訳】
父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。
【口語訳】
父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。
【岩波訳】
彼の父母は、それがヤハウェから出たものであることを知らなかった。彼がペリシテ人のが側に〔攻め入る〕口実を求めていた・・からである。
【関根訳】
彼の父と母はそれがヤハヴェから出たこであるのを知らなかった。彼はペリシテ人のすきを窺っていたのである。
【フランシスコ会訳】
父親と母親には、これがヤーウェによるものであると分からなかった。実に、ヤーウェはペリシテ人と事を構える機会を伺っておられたのである。
【バルバロ訳】
父母はそのことが主の御旨であることを悟らなかった。主はペリシテ人に対して事を起こす口実を探していられた。
【L・B】
両親は、まさか背後で神様がこうなるようにあやつっておられるとは、気がつきません。 神様は、当時イスラエルを支配していたペリシテ人を、計略にかけようとしておられたのです。
- まず気になる所は第二文節の主語です。原典では「彼」を意味する代名詞の「フー」が使われています。そのまま「彼」として訳しているのは岩波訳と関根訳だけです。あとはこの「彼」を「主」とする訳と、「サムソン」とする訳に分かれますが、後者のように訳しているのは口語訳のみです。
- 一つの聖書には一つの訳語しか当てることができませんが、いろいろや訳の聖書を読み比べることで、原典のヘブル語のニュアンスを学ぶことができます。たとえば、4節のサムエルの両親が息子がペリシテ人の女性と結婚したと申し出たとき、そのことが主から出ていることを知ることができませんでした。「知る」と訳された動詞は「ヤーダ」יָדַעです。この動詞を「知る」だけでなく、「分かる」「悟る」「気づく」という訳語があることを知ることでができます。
2. 理不尽な事柄
(1)「サムソンが気に入った女性はペリシテ人であったこと」
- サムソンが出生する前から両親には自分の息子の使命が何であるかを知らされていましたが、それが具体的にどのようにはじまり、どのような展開をして実現していくのか知る由もありませんでした。ですから、そのご計画がばしまるときにも気づくことがなかったのです。神のご計画は私たちの予想や理性による理解を大きく越えています。アブラハムの息子イサクの誕生も人間的な理解を越えた方法で、予め両親に知らされるかたちで実現しましたが、いつもそうであるとは限りません。サムソンの両親のように神がしようとされることに全く気づかなかったのです。
- 神によって与えられたひとり息子のサムソンは神の祝福の中で成長していきましたが、青年になって、ペリシテ人の女性を見初めました。当時は父親の許可無く結婚することはできませんでしたので、サムソンは自分が見初めた彼女を妻に迎えてほしいと頼み込みました。しかしこの申し出は両親にとって理不尽なものでした。
- モーセの律法では異民族との結婚は禁止されました。それは神の民が上の聖を保つためです。にもかかわらず、サムソンはその異民族の女性がサムソンが「気に入ったしまった」のです。しかしここに神のはからいがあったのです。
- 聖書の中には神の民が異民族と結婚した例があります。しかもそれが歴史の中では重要な役割を担っている例です。一つはヤコブの息子のヨセフがエジプトに売られ、そこで王に次ぐ地位を得た時に、エジプトの王はヨセフにエジプトの祭司の娘をめとらせています。そこからマナセとエフライムが生まれたのです(創世記41:45以降)。もうひとつの例としては、ナオミとその夫エリメレクが飢饉ためにモアブの地に逃れた時に二人の息子の嫁はモアブ人でした。兄のマフロンの妻となったルツは、後にイエス・キリストにつながる女性となります。ここにも理不尽があります。
- 余談ですが、「あの女が私の気に入ったのです」の「気に入った」と訳されることばはヘブル語では「私の目にまっすぐ」、「ヤーシュラー ヴェ・エナーイ」(יָשְׁרָה בְעֵינָי)という表現をするようです。「ヤーシュラー」の基本形は「ヤーシャル」で「まっすぐにする」という意味ですが、この動詞から「エシュルーン」יְשֻׁרוּןという名詞が派生します。「エシュルーン」はイスラエル、あるいはヤコブの別称です。神に愛された特別な存在であるという意味です(申命記33:26~29参照)。
- 話を戻すと、サムソンが好きになった女性との結婚を糸口にしてペリシテ人と深くかかわるようになっていきます。そこに神の計画が隠されていたのです。
(2)「ナジル人とは思えないサムソンの逸脱行為」
- 14章にはサムソンの理不尽な行為が見られます。それは彼のナジル人としての生き方からすると逸脱している点です。その一つは死体に近づいたことです。これはナジル人の規定として律法が記している規定に対する違反です。さらには、七日間にわたる祝宴です。当時の祝宴は酒宴そのものでしたから、彼も飲んだかもしれません。
3. 理不尽さをどのように受けとめるか
- 私たちが聖書を読んでいく時に、理不尽と思える出来事や行為を自分の理性、道徳、価値基準で評価しながら読んでしまうということがあります。しかし私たちが理不尽だと思っていることは、必ずしも神の視点からすれば理不尽ではないのかもしれないという「理解のゆとり」を持って読むことが大切です。そうでないと、読む者自身がつまずいしまうのです。ある女性の方が「私はダビデが嫌いです」と言いました。それはダビデが姦淫の罪を犯したということが受け入れ難かったからです。ですから、詩篇の表題に「ダビデ」という名がついているだけで、その詩篇を味わおうという気持ちも起こらなかったようです。極端な例ですが、似たようなことが聖書を読む時に起こっているのかもしれません。神のみこころに近づくためには、私たち自身の理解の型紙を破らなければならないのです。
- 私たちの目に理不尽と思われる事柄を神はご自身の計画の中に含めてしまれる方なのです。それゆえ私たちはそうした事柄に対する理解の幅を持つべきです。そもそも、神の御子イエス・キリストの十字架の死へのプロセスはまさに理不尽の骨頂なのですから。
2012. 4.28
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