****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps11/C

Ⅰ/A(1~41篇) | 原典テキストPs11 | 瞑想Ps11/A | 礼拝用語Ps11 | 恩寵用語Ps11 |

瞑想Ps11/C

●詩篇11篇の最後の節は、
【新改訳2017】「直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」
【新共同訳】「(主は)御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」

●主語が二通りの解釈で訳されています。
いずれの訳にしても、「主」と「直ぐな人」が互いに顔と顔を合わせています。

●「直ぐな人」をヘブル語では「ヤーシャール」(יָשָׁר)と言いますが、これをイスラエルの詩的表現をした名称では「エシュルン」(יְשֻׁרוּן)となります(申命記33:26,イザヤ44:2)。「ヤーシャール」と「エシュルン」は語幹が同じです。したがって、「イスラエルは主の御顔を仰ぎ見る」し、「主はその御顔をイスラエルに向けてくださる」と言えます。

●創世記32章でヤコブがある人と夜明けまで格闘した話があります。そこで登場した人(イーシュ)とは、イェシュアと解釈できます。そして、ヤコブは「わたしはあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と言います。その人はヤコブを祝福します。そのところをヤコブは「ペニエル」と呼びます。なぜなら、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」からです。この「顔と顔とを合わせて」という部分が「パーニーム・エル・パーニーム」(פָּנִים אֶל־פָּנִים)です。

●これは、積極的に、「主にとどまろう」とする表現です。これは、エマオの途上の二人の弟子たちが、ある人(イェシュア)の話を聞いたあとで、彼らが「いっしょにお泊りください」と言ったことばと似ています。このことばの「いっしょに」とは「ともに」という「メタ」と、「泊まる」とは「とどまる」を意味する「メノー」という言葉です。しかも、無理に(強いて)願ったとあります。それでイェシュアも一緒に泊まったのです。そこで彼らはさえぎられていた目が開いて、イェシュアだと分かったのです。まさに、イェシュアとエマオの二人の弟子が 「顔と顔とを合わせ」 たのです。

●この話は創世記32章のヤコブと人との格闘での話と似ています。「御顔を仰ぎ見る」ということばには、双方が共に「顔と顔とを合わせる」ということを含んでいます。そこには、動的、かつ積極的・自発的姿勢、さらに開眼の祝福を含んでいると言えます。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional