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瞑想Ps15/A

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瞑想Ps15/A

  • この詩篇は、前の14篇の「神のサーチ」と関連しているように思います。「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれもが腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない」(14篇2~3節)という神の人間に対する評価、この神の評価に対して、自分には関係ないと思うならば、15篇の1節「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」という誠実な問いは出てこないように思えます。
  • 「宿る」も「住む」も交わりを表わす用語です。「主よ。神の幕屋にとどまり、共に住むにふさわしい者とはいったいだれでしょうか。」との問いを今朝のキー・ワードにしてみたいと思います。
  • 神の宮(幕屋)に宿り、聖なる山(シオン)で主を礼拝するにふさわしい者は「だれ」なのか。「善を行なう者はいない。ひとりもいない」という神のサーチの結論に対する驚きと問い、そしてそれに対する神の答えが詩15篇2節以降の内容だと思います。
  • 詩15篇は、神と人、人と人、その両者の密接な関係についてのあるべき姿を提示しています。ある人は「神に対する信仰は、人間関係の中で吟味されて、真実なるもの、純粋なものになる」と述べています。神との関係、人との関係・・これは車の両輪の関係で、どちらかがないがしろにされてはまっすぐに進むことはできないということです。神との親しい関係を築こうとする礼拝者は、隣人との関わりと密接な関係にあることを・・・これが今朝の瞑想のテーマです。
  • 1節の脚注を見ると詩24篇3節にも同じ問いかけがあることが分かります。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」と。しかしそこを読む限りにおいては、隣人との関係は語られていません。神との関係だけが問われています。したがって、詩15篇は、詩篇において、神と人、人と人との関係についてはじめて語られる重要な詩篇だと思います。
  • 1節の「だれが」の問いかけ対する答えは「正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人(口語訳では、心から真実を語る者)」です。LB訳では「非の打ちどころのない生活を送る、誠実そのものの人」とあります。そしてそのあとに、人との関係におけるチェックリストが8項目並んでいます。すべてに○印をつけられるならば、その人は「決してゆるがされない人」だというのが、この詩篇の結論です。どれだけこのチェックリストに○印をつけられるでしょうか。LB訳で挙げてみると・・・
    ① 口が裂けても人を中傷しない。 
    ② うわさ話に耳を貸さない。 
    ③ 決して隣人を傷つけない。
    ④ 大胆に罪を告発し、それを明るみに出す 
    ⑤ 主に忠実な者をほめる 
    ⑥ たとい危害を受けても約束は破らない。 
    ⑦ 高い利息で負債者を窮地に追い込むようなことをしない。
    ⑧ 賄賂を受け取って無実の人に不利な証言をまちがってもしない。
  • 上記の8項目に記された生き方ができるなら、なんと幸いかと思います。特に、「損になっても、立てた誓いは変えない」(4節)ような生き方をしてみたいものです。多くの人たちからの信頼を得ること間違いなしです。そんな自分の思いと現実にはギャップがあります。自分を欺かずにこれらの項目をひとつひとつ吟味してみるなら、とても○印をつけることはできません。印のつかないところがひとつでもあるなら、礼拝者としては失格です。これが旧約の基準です。そして私も「義を行なう者はいない。ひとりもいない。」の部類に間違いなく入る者であることを認めざるを得ません。
  • 1節の「宿る」とか「住む」ということばは、神との親しい交わりを意味しています。人との関わりにおいて、その交わりを阻む原因が自分の中にあることを明らかにされます。「しかし!」です。そんな人間の絶望的な状況の中に、神が福音を与えてくださいました。それは、だれが、いかにして、神のうちに宿り、住むかという問題ではなく、神ご自身が、私たちの内に宿り、住んでくださるということがイエス・キリストによって、御霊によってなされるという福音です。これは驚くべき神のわざです。
  • 使徒パウロは、エペソ人への手紙3章で、すべてのいのちの源である天の父に祈っています。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたのうちに住んでくださいますように。」(17節)
    この祈りにある「内なる人」とはキリストのことです。その「内なる人」が強くされるということは、私たちのうちに住まれるキリストを通して神を親しく知るということです。すべてはそこからはじまるからです。そして、教会のからだにつながるひとりひとりが、「人知をはるかに越えたキリストの愛」(19節)を経験して、からだ全体は愛のうちに建てられていくのです。このようにして、キリストによってはじめて詩15篇が実現していくと信じます。
  • 「だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。たれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」この問いかけに私は自信をもって言います。「私のうちに住まれるキリストにあってこの私が!! 」と。 

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