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瞑想Ps25/B

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瞑想Ps25/B

  • 詩篇25篇はとても長い詩篇で、どこをどう捕えていいのか迷ってしまいます。しかしよく注意深く見てみると、いくつかの特徴的なことばがあることに気づきます。そのひとつとして「道」があります。詩篇の作者は「主の道を知らせ、教えてください」と祈り、それに応えるかのように、「主は、道を/ご自身の道を/選ぶべき道/を教えられる」とあります。「道」ということばは、知恵文学(詩篇、箴言など)に数多く見られます。
  • もう一つの特徴的なことばは、人の主に対する<信頼用語>と言えるものです。表現こそ違いますが、みな信頼という一つのカテゴリーでくくることができます。たとえぱ、1節の「あなたを仰いでいます」。2節の「あなたに信頼します」。15節の「私の目はいつも主に向かう」。20節の「あなたに身を避けます」。21節の「あなたを待ち望みます」などです。
  • 「道」ということばと「信頼用語」はどうように結びつくのでしょうか。それはこうだと私は考えます。主を信頼するということは、具体的には、主の道を知る、より核心を突くなら、「わたしは道である」と言われた「キリストを知ること」と言えます。
  • 日本にも「茶道、華道、香道、書道、剣道、柔道、弓道など」がありますが、どれもみな精神的なライフスタイルを追求しています。しかもその習得には、その道の先人たちから教えを受けるということから始まります。山の道も多くの先人たちが足で踏んで出来た道を歩きます。自分ひとりで道を作ることはできません。また、どの道が良いかわかりません。 「人にはまっすぐに見える道がある。しかしそれは死の道である」(箴言16章)とも言われます。また、道があるからといって、歩いていって行き止まりということがあります。元の場所まで戻れば迷うことがありませんが、なかなか人は戻ることができずに突き進んで、破滅の道を行ってしまうのです。「わかっちゃいるけど、やめられない」というところでしょうか。
  • 詩篇77篇には、主の道はしばしば海の底であったり、水の中にあったりすると記されています。人の目には見えずとも、その道は確かにあるのです。それを知ることが主を信頼することであり、その結果は、決して「恥を見ることはない」と言えます。
  • 「恥を見ない」ということばも捨て難いことばです。詩篇25篇では、「人のたましいはしあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ぐ」と表現しなおされます。「地を受け継ぐ」とは、文字どおり、神の約束された地を受け継ぐことであり、また、すべての大切なものを手に入れると理解することもできそうです。
  • 旧約の「恥を見ない」ということばは、新約では「失望に終わることがない」という表現と同義です。「主を信頼する者は、決して失望に終わることがない/失望させられることがない」のです(ローマ9章33節、同、10章11節、ペテロ第一2章6節参照)。その秘訣は、道であるキリストご自身を知ることです。それがどんなに大切なことか。マリヤスタイルの重要性を彷彿とさせます。そしてここに瞑想の奥義があると信じます。

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