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瞑想Ps29/A

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瞑想Ps29/A

  • この詩29篇の特徴は作者が御使いたちに賛美を呼びかけていることです。1節の「力ある者の子ら(別訳、神の子ら)」とは、私たち人間のことではなく、神に仕える御使いたちのことです。彼らは永遠に神に仕え、神を礼拝するために造られた被造物です。作者は彼らに神の栄光と力をたたえるようにと呼びかけています。2節の「聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ」(2節)というのは分かりにくい表現です。新共同訳は、ここを御使いたちが装うべきものとしての飾り物ではなく、主のご自身を表わす形容句として「聖なる輝きに満ちる主」というふうに訳されています。ドイツのアルトゥール・ヴァイザーという学者はここを「主が聖所にあらわれた時に」と訳しています(ATD旧約聖書註解)が、翻訳としては難しい箇所であることをうかがわせます。しかしながら、御使いたちが神の御座で礼拝している光景だと考えるなら、どちらの訳であってもイメージができます。
  • 天においては、御使いたちはいつも栄光と力が神にあるようにと賛美していることが分かります。ヨハネが見た御座での光景でも、雷鳴は神をたたえる天上のコーラスでした。しかし、神の栄光と力が地上に現われるときには、主の声は雷鳴としてなり響き、恐るべき威力をもたらし、名高いレバノン杉の誇りさえも打ち砕いてしまうほどです。この詩篇29篇には「主の声」が7回も使われていますが、すべて自然における脅威をもたらしています。旧約では、栄光の神は、しばしば神の敵に対して雷鳴をとどろかせて敵の軍勢を打ち負かしています(Ⅰサムエル7章10節参照)。自然界だけでなく、人間界においても然りです。マリヤの賛歌(ルカ2章)ではこう記されています。「主は・・心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。」(2章51~52節)
  • この詩篇の鍵は10節と11節にあると思います。「主は、大洪水の時に御座に着かれた。」とあります。大洪水とは、ノアの時代の時の洪水のことでしょう。そのときは、神は人間が悪にどんどん傾いていくのをご覧になったのを悔やまれ、リセットすべく大洪水というさばきをもたらしました。しかしこの出来事はさばきの面だけが強調されてはなりません。もうひとつの大切な面は、神がノアとその家族によって人との交わりを再びはじめられたという点にあります。虹が雲の中に現われたのは、神が希望の神であることのしるしです。「大洪水の時に御座に着かれた」とは、神の人に対する愛の支配であり、希望はこの神によってのみもたらされると信じます。
  • 10、11節は新共同訳によれば、「どうか・・」という願いの形に訳されています。「どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。」この願いは、イエス・キリストの誕生によって実現します。ルカの福音書2章8節~14節を見ると、羊飼いたちのところに主の使いが喜びの知らせを伝えるために現われます。主の栄光が回りを照らしたので、羊飼いたちはひどく恐れました。そして天の軍勢も現われて神を賛美してこう言いました。「いと高きところに、栄光が、神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」 この<天軍賛歌>こそまさに詩篇29篇の新約版といえます。
  • いと高きところには栄光があることはわかっています。しかしその栄光が、今や、イエスの誕生によって、この地上に、自然の脅威ではなく、平和ーつまり神のすべての祝福を意味するシャロームとして、御心にかなうものに与えられるようになったのです。御使いによって栄光と力がほめたたえられる「御座に着かれた王」が、天と地に希望の虹をかけてくださったのです。
  • この詩29篇は、私たちの信仰の視座をもっと高いところにおくようにと呼びかけています。それは主にある者たちひとりひとりが、いつの時代でも、どんな状況の中でも、希望と勝利をもって生きるためであると信じます

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