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瞑想Ps37/C

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瞑想Ps37/C

37:3
主に信頼して善を行なえ。
地に住み、誠実を養え。

  • 詩篇37篇3節のみことばは、同義的並行法が使われています。つまり、「主に信頼して善を行う」ことと、「地に住み、誠実を養う」ことが同義です。前の行の「主に信頼して善を行う」ということの意味が、後の行で説明されています。
  • 「善を行なう」とはどういう意味なのか。それを知るために、聖書のことばで解釈するなら詩篇14篇が良い参考になります。そこでは、「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。・・・善を行なう者はいない。ひとりもいない。」(14:2~3)とあります。ここでわかることは、「善を行なう」とは、「神を尋ね求める」(ダーラシュדָּרַשׁ)ことと同義だということです。
  • そこでもう一度、37篇3節を見てみると、「主に信頼して、善を行なえ、すなわち、神を尋ね求めよ。」という具体的な意味が、次の行に「地に住み、誠実を養え」と表現されていると考えることができます。「地に住み」とは、自分が置かれている地(ところ、場所)に踏みとどまり、そこに住み、腰を据えるという意味です。腰を据えて何をするのかと言えば、「誠実を養う」ということです。この部分こそ、3節の(あるいは、37篇の全体の)重要なキーワードと言っても過言ではありません。
  • 新改訳で「誠実」と訳された「エムーナー」אֱמוּנָהは、「アーメン」と同じ語根です。多くは「真実」と訳されています。ちなみに、旧約では「エムーナー」は49回。詩篇では22回使われています。いわば、詩篇の特愛用語です。22回のうちの1回だけ、「誠実」と訳されているのが3節です。ちなみに、「真実」と訳された21回のうち、「恵み」(ヘセド)とセットで用いられているのは12回です。
  • 「真実」と訳されている「エムーナー」は、神ご自身が約束されたことを決して破らないという意味ですが、その方向性は神が人に対する場合です。「エムーナー」が人から神に対しての方向性を持つ場合(詩篇では37:3のみ)には、「真実」ではなく、「誠実」と訳しています。これは微妙に使い分けた驚くべき訳と言えます。
  • 人の神に対する真実、つまり「誠実」は、「神を尋ね求める誠実」です。そしてそれが「信仰」とも言えます。それゆえ新共同訳では、「誠実」を「信仰」と訳しています。
  • では、「誠実を養う」とはどういうことなのでしょうか。「養う」と訳された動詞は「ラーアー」(רָעָה)です。旧約では175回使われていますが、詩篇では8回。本来の意味は「羊を飼う、羊飼いとなる。牧する、食べさせる、世話をする」という意味です。神が人を、羊飼いが羊を飼う場合には「牧する,世話する」という意味になりますが、人が自分の誠実や信仰を世話する場合には「養う」ということになります。つまり、自分自身の信仰(誠実)を養うことの重要性がここで取り上げられているのです。
  • 主のために熱心に仕えて奉仕することは尊いことですが、熱心に奉仕することは、必ずしも「誠実を養う」ことにはなりません。ここに重大な落とし穴があります。イスラエルの民がバビロンの捕囚となったことは、一見、わざわいのように見えます。ところが、捕囚となる前に預言者エレミヤはユダの民たちに対してこう言いました。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。・・』」と。なぜなら、その捕囚の地において、神はご自身の民を新しくするために、時間をかけてリセットするという意図があったからです。バビロンの地にとどまり、そこに住み、腰を据えて、神を熱心に尋ね求め、神のみおしえ(トーラー)を喜びとして、昼も夜もそのおしえを口ずさむ新しい生き方をするようにというのが、神のバビロン捕囚の意図するところであり、それが「誠実を養え」という真の意味です。当時の人々は、エレミヤのメッセージを正しく受け留めることができずにエジプトへと逃亡し、神のみこころから離れる者もいたのです。
  • ひとたび伝えられた信仰が次の世代に息づいて受け継がせるためには、主にある者たちひとりひとりが、今、置かれている場において「誠実を養う」ことが必須です。ところが、今日の教会はそのことにそれほど危機感をもって受け止められていないように思います。「誠実を養う」ために最も大切なことは、「みことばの瞑想」です。瞑想とは、単に、自分の心を見つめることではありません。真理であるみことばを通して、神と親しく、そして深くかかわる祈りの生活を意味します。どのようにしてこの生活を建て上げることができるか、これは今日の教会における大事業であり、しかも難事業と言えます。なぜなら、土台はすでに根底から崩れかけているからです。
  • あらためて、「地に住み、誠実を養え」とのみことばを真剣に受け留めることは、特にマイノリティ(少数派)な日本のクリスチャンにとって、唯一、「将来と希望を与えるためのものだ」と信じます。すべてはそこから始って行くからです。

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