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瞑想Ps51/B

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瞑想Ps51/B

  • 詩篇51篇のキー・ワードを17節の「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」として、もうひとつ別な面から思いを巡らしたいと思います。
  • 砕かれた、悔いた心とは、「新しい心、統一された心を祈り求める心」です。私たちの心が分裂していることは、人間が本来的な自己を見失い、地上的な一時的な欲情に惑わされて、不安と迷いの中に生きることを意味します。善をしようとしても、心が分裂しているゆえにできないのです。ここに人間の悲惨さがあります。使徒パウロもこの罪で苦しみました。そして、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくださるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7章24節)と叫んでいます。
  • こうした悲惨さから私たちを救い、心の分裂をいやし、私たちの心を統一させてくれる存在を私たち人間は必要としているのです。ダビデは1節で「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしの背きの罪をぬぐい去ってください」と祈っています。神のあわれみに訴えています。しかしこの祈りは新しい心を祈り求める消極的な面です。ダビデはもっと積極的な祈りをしました。それは10節です。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊で私うちに新しくしてください。」と。「きよい心」とは、別な言葉で言うならば、「統一された心」と言えます。「造る」と訳された動詞は、ヘブル語で「バーラー」です。創世記1章1節の「はじめに神が、天と地を造られた」という所に使われている同じ言葉です。つまり「きよい心を造る」とは、神にしかできないことをダビデは知っていたのです。私たちの努力で作ることは不可能です。それは神の霊、神から与えられる聖霊の助けによってのみ可能です。
  • すでに、この方(聖霊様)は、イエス・キリストを信じる者のうちに働いておられます。この方の助けを歓迎し、この方に助けを求めるなら、柔らかな心、砕かれた、悔いた心が与えられて、神との親しい交わりにあずかっていくことができると信じます。

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