瞑想Ps63/A
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瞑想Ps63/A
- この詩篇には実に多くの<礼拝用語>(ダビデの神に対する姿勢、行為、態度を表わす動詞に注目)が出てくるのに驚かされます。1節から8節までになんと12の礼拝用語が見られます。
- ①「切に(朝早く)求めます」
- ②「渇きます」
- ③「慕います」(気を失うほどに、気も狂わんばかりに)
- ④「仰ぎ見ます」
- ⑤「賛美します」
- ⑥「ほめたたえます」(生きている限り)
- ⑦「祈ります」(両手を上げて)
- ⑧「賛美します」(喜びにあふれて)
- ⑨「思い出します」
- ⑩「思います」(⑨⑩は瞑想すること)
- ⑪「喜び歌います」
- ⑫「すがります」
- これらのことばは、この詩篇の表題にもあるように「ユダの荒野」において告白されたものです。これまでもダビデは整えられたシオンの幕屋で神を礼拝していました。しかし今や、アブシャロムの反乱によってそうした整えられた環境から離れることを余儀なくされたのですが、ダビデはそうした環境的なものに頼ることなく、神を慕い求めたのです。ここに、ダビデがいかに模範的な礼拝者であったかをうかがわせます。予期せぬ出来事に出会って、神への信仰を捨てる人もいますが、ダビデにとってそれは神との関係を深める出来事となったのです。神を礼拝することは、ダビデの「いのちの拠点」でした。
- 予期せぬこの荒野経験は、ダビデをしてさらなる神への思いを募らせることとなったのですが、その強烈さに圧倒させられます。特に8節の「私のたましいしは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。」という確信は、その前のすべての礼拝用語を統括するものだと信じます。
- 「すがる」という用語は、普段あまり良い意味で使われることはありません。というのも、くっついて離れない、執着する、固執するというイメージがあるからかもしれません。しかし神に「すがる」ということは神を喜ばせる態度です。どんな状況に陥っても神を必死の覚悟で放すまいとすることです。あるいは、神にあって、決して希望を捨てないという態度です。そのような者を神はどこまでも「ささえてくださる」のです。この確信を与えられたダビデをだれも崩すことはできません。
- ちなみに、旧約聖書で「すがりつく」恵みを体験した女性がいます。それはダビデの曾祖母であるルツです。ルツはモアブ人でしたが、姑ナオミにすがりつきました。ルツはナオミに言います。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ、私も行き、あなたの住まわれるところに私も住みます・・・あなたの神は私の神です。あなたの死なれるところで、私は死に、そこに葬られたいのです。」(ルツ記1章)
- ルツは、ヘブル人ナオミにすがりつくことで、ナオミの信じている神にすがりついたのです。神はこのルツをご自身の懐にしっかりと抱きかかえました。そして「はからずも」、ボアズと出会い結婚し、ダビデにつながる子孫をもたらし、やがてはメシアが生まれるという神の計画にあずかったのです。
- 予期せぬ荒野の経験を通らせられたとき、私たちが主に「すがりつく」者となることは幸いです。それはすばらしい結果をもたらすからです。ダビデの系譜はまさに「神にすがりつく系譜」です。
- 詩63篇に見られる荒野経験での神への強烈な思慕はダビデを変えました。それは神に対してだけでなく、周りの人々に対する対応において彼を寛容な人に変えました。それは敵に対してもそうでした。サムエル記第二19章14節はその結果が記されています。「こうしてダビデは、すべてのユダの人々をあたかもひとりの人の心のように自分になびかせた」と。
- まず自分に背いたアブシャロムに対して部下たちに「手心を加えるよう」に命じました(Ⅱサムエル18章5節)。次に、都落ちを余儀なくされた自分を呪ったサウル家の一族のシメイは、やがてダビデが返り咲いてエルサレムに帰還した折に、自分の罪を謝罪しました。するとダビデは彼を赦したのです。また、アブシャロムについてその軍団長となったアマサに対しては、ダビデは彼を殺すことなく、自分の軍の将校に取り立てました(同、19章13節)。また、ダビデとその一行を養ったギルアデ人のバルジライに対しては最高の境遇で迎えようとしました(同、19章31節以降)。
- ダビデのこのような計らいはユダのすべての人々の目に麗しく映ったと思われます。ダビデはアブシャロムの反乱の出来事を通して、清濁併せ呑む王として、寛容な王としてそのリーダーシップを発揮することとなったのです。実に、ダビデは私たちにとって学ぶべき多い神の器であることをあらためて思わせられます。