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瞑想Ps8/A

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瞑想Ps8/A

  • 私の、今朝の瞑想のキー・ワードは2節「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。」です。その目的は「あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるため」とあります、主の御名は天においても地においても、力強く支配し、その力はみなぎっています。しかし、それはいったいどのようにしてなされているのだろうか。そのヒントとなるのが、「幼子と乳飲み子たちの口によって」ということばです。この世で最も弱い者たち(イエスの弟子たちのことを意味します)が、神の力を打ち建てるとは、なんとも不思議なことです。しかし、それが今朝の私の瞑想のテーマです。
  • 詩8篇2節の脚注を見ると、マタイ福音書21章16節が参照箇所として記されています。マタイ21章はイエスが十字架につけられる最後の週のはじめに、エルサレムに入場された時のことが記されています。壮観な白馬に乗ってではなく、小さな子ロバに乗っての入場でした。見るからに情けない格好ですが、群衆はイエスを熱狂的に歓迎しました。その後、イエスは宮きよめをし、宮の中で、盲人や足の不自由な人たちをいやされました。当時、そのような人たちは宮の中に入ることが出来ませんでした。指導者たちはそうした出来事(メシアしかできない奇蹟)を見つつ、また、子どもたちが宮の中で「ダビデの子にホザナ」と言って叫んでいるのを聞いて、いたたまらなくなり、腹立たしくなって、イエスに駆け寄ります。そのときイエスが語った言葉が詩篇8篇2節です。イエスは指導者たちに、「『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを読まなかったのですか。」と逆に聞き返しています。「・・の口によって、力を打ち建てられた」というところを、マタイでは「賛美を用意された」となっています。これは、マタイがギリシァ語訳のLXX(70人訳聖書)をもとに書いたからです。
  • いずれにしても、「幼子と乳飲み子たち」とは「小さな者たち」の代表です。後に、イエスは弟子たちのことを「幼子たち」と呼んでいます(マタイ11:25)。イエスは、数々の力あるみわざを行なわれた町々が悔い改めないのを目の当たりにしたとき、その町を責められました。一見、その働きは、だれが見ても失敗したかのようにみえました。しかしその後、イエスは御父に祈りました。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」と(マタイ11章25、26節)。
  • イエスの語ったこのことばと同じ思想が、使徒パウロもコリント人への手紙第一の中で、「神の知恵」として語っています。1章18節以降から拾って見みると、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。・・これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。・・事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵なのです。」(27、29、21節)とあります。さらに、同じ手紙の12章に至っては、「それどころか、からだの比較的に弱いと見られる器官がかえってなくてはならないものなのです。」(22節)とあります。なぜなら、それは、からだ全体が分裂することなく、調和するためであり、各部分が互いにいたわり合うためであると説明されています。
  • 神の隠された秘密、神の知恵を私たちはもっともっと知る必要があります。その知恵は私たちに感動を与え、感嘆の声を上げさせます。マザー・テレサ、テゼ共同体のブラザー・ロジェと並んで、現代の三大聖人の呼ばれる一人、ジャン・バニエがおります。彼は、知的・身体的ハンディを持つ人々と共に暮らすグループホームを作りました。それが「ラルシュ共同体」です。「ラルシュ」とは箱舟という意味です。ジャン・バニエの生き方と考え方は、多くの人に光を投げかけました。今現在、世界中に110箇所の「ラルシュ共同体」が設立されています。日本にはその一つ、静岡にあります。
  • 「低さの価値」を見ようとしない現代社会、そこにある価値観は、ギリシアのヘレニズム文化-エロスの価値観-です。その価値観とは、人間的に見て、より美しいもの、より賢いもの、より力あるもの、より高いものを愛するという価値観です。この価値観に私たちの多くが支配されています。「競争社会」はまさにこの価値観によって動かされています。とにかく、人よりも秀でること、勝つこと、一番になることが目指されます。そうした世界では「低さ」をもった価値観はほとんど顧られません。ジャン・バニエをして現代の聖人と言わせたのは、まさに彼が「低さの価値観」を訴えたからでした。
  • 私も彼の『ラルシュのこころ』という本を読んで、とても心動かされました。彼は言います。「ハンディを持った人の存在、そしてそうした人と交わることは、健常者と言われる人の心の貧しさを豊かにするのです。」と。イエスも言っています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネの福音書11章25節)と。その意味するところは、自分のいのちを愛するエロスの愛の追求は、私たちにとってきわめて大切な存在のいのち、すなわち、交わりのいのちを失わせてしまうということなのです。
  • 私が牧会する教会にも身体的ハンディをもった方がおられます。私たち教会員はその方を、殊の外、大切にして関わろうとしています。なぜなら、彼は神の隠された知恵(秘密)を私たちに気づかせてくれる貴重な存在だからです。
  • この詩篇の中には、次のような「二つの驚き」に焦点を当てることができます。

    「あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

    • 主の「力強さ」が、乳飲み子や幼子に代表される弱い存在を通して表わされていることに対する驚きです。

    「人とは何ものなのでしょう。人の子とは・・」

    • 宇宙、大自然から見るなら、人はいとも小さな存在です。にもかかわらず、主はその小さな者たちに心を留め、特別に顧みてくださっていることに対する驚きです。

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