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知恵の預言者的呼びかけとその拒絶

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

3. 知恵の預言者的呼びかけとその拒絶

【聖書箇所】 1章20〜33節

ベレーシート

  • 1章8~19節で、父から子へ向けた教訓が語られた後に、20節から突然、擬人化された「知恵」が熱意をもって(預言者的に)人々に語りかけますが、ここでの「知恵」は複数形で「ホフモート」(חָכְמוֹת)になっています。ヘブル語の名詞が複数形で用いられるときはしばしば単数名詞として扱われます。例えば、創世記1章1節の「初めに神が」の「神」は、動詞が3人称男性単数であるにもかかわらず、形としては「エローヒーム」と複数形なのです。これは畏敬や尊厳を表わす名詞と言われています。他にも複数形の名詞の用途として「強調」や「広がり」「完全性」などを表したりします。箴言1章20節の「ホフマー」(חָכְמָה)の複数形「ホフモート」(חָכְמוֹת)は、知恵の畏敬と尊厳を示すものだと言えます。
  • 20~33節には、知恵の訴えとそれに従う者に対する約束、訴えを拒絶して従わない者の破滅について記されています。

1. 知恵の熱意を込めた訴え

  • 知恵の訴えは四つの動詞で表わされています。

(1) 「ちまたで大声で叫ぶ」
大声で叫ぶ」(「ラーナン」רָנַן の未完了・女・複)
(2) 「広場でその声を上げる」
声を上げる」(「ナータン」נָתַןの未完了・女・単)
(3) 「騒がしい町かどで叫ぶ」
叫ぶ」(「カーラー」קָרָאの未完了・女・単)
(4) 「町の門の入口で語りかけて言う」
言う」(「アーマル」אָמַרの未完了・女・単)

  • ここでの「知恵」の訴えは、決して穏やかな優しいものではなく、むしろ声を張り上げて語る預言者的で厳しいものです。しかもこの「知恵」は23節以降では「わたし」という第1人称に変わります。この「わたし」はやがてソロモンにまさる方として、また「神の知恵」として現わされるメシア・イェシュアを予告しています。

2. 知恵に対する拒絶

  • イェシュアが人々に熱心に語りかけたにもかかわらず、人々から拒絶されたように、箴言の「知恵」も同じく多くの人々から拒絶を受けています。熱心に語っても、人々はそれを頑なに「拒み」(24節)、「顧みず(意に介せず)」(24節)、「無視し(なおざりにし)」(25節)、「受け入れなかった(欲しなかった」(25節)とあります。また、それを「憎み(厭い)」(29節)、「選ばず」(29節)、「好まず(望まず)」(30節)、「侮った(ないがしろにした)」(30節)のです。これらの完璧な拒絶、あるいは敵意と無関心は、後に神から遣わされた神の御子イェシュアに対してなされる預言です。
  • 「主を恐れることがすべての初め」であるにもかかわらず、「主を恐れることを選ばなかった」という点が重要なポイントです。「選ぶ・選ばない」というのはきわめて主体的な行為です。そこからすべてがはじまって行きます。「選ぶ」ことと「愛する」ことは同義です。「主を恐れることを選ばなかった」ということは、そこからあらゆる拒絶的行為(無関心、敵意)へと発展して行きます。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した・・真理を行う者は、光のほうに来る。」(ヨハネ3:19~21)。「光」は「知恵」と同義です。その「知恵」に対して正しく向き合うということが如何に重要であり、かつ困難であるかを思い起こさせます。

3. 「知恵」の叱責と約束

  • ここで、「知恵」である「わたし」の叱責と約束のことばに目を留めてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】箴言1章22節
22 わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。


●「知恵」が訴えている対象は「わきまえのない者たち」、「あざける者たち」、「愚かな者たち」です。その彼らに対する叱責は、①「いつまで、わきまえのないことを好むのか。」
②「いつまで、あざけりを楽しむのか」
③「いつまで、知識を憎むのか」

●「いつまで」と3度も繰り返されていますが、原文では1回だけです。しかしこの「いつまで」ということばは、叱責(「トーハハット」תוֹכַחַת)に心を留めることを促すだけでなく、それを期待することばでもあります。「心を留める」と訳されたヘブル語は「シューヴ」(שׁוּב)で「立ち返る」「向きを変える」ことを意味します。つまり「悔い改め」です。この促しこそ「知恵の叫び」なのです。

●「心を留めた」者に対する約束は、「今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」というものです。「今すぐ」は「見よ」を意味する「ヒンネー」(הִנֵּה)で、この後に語る約束そのものに注意を向けさせる間投詞です。

●「あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」とは預言的です。「わたしの霊」とは、知恵の霊とも神の霊とも言えますが、それは「知恵と啓示の御霊」のことであり、それによってはじめて神のことばを理解し、悟ることができるのです。しかしその「わたしの霊」(「ルーヒー」רוּחִי)は、神に立ち返った者に与えられる賜物なのです。

●神に立ち返り、神に聞き従う者に与えられるのは「安全に住まう」ことと、わざわいの恐れから解放された「平穏さ」です。神への信頼のゆえに「安全と平穏さ」が保障されるという約束です(1:33)。


4. 拒絶する者に待ち構えていること

  • 「知恵」の呼びかけを拒絶する者に待ちかまえているのは破滅です。

(1) 恐怖があらしのように、災難がつむじ風のように襲う

●「あらし」とか「つむじ風」は、神のさばきを表す比喩です。突然の予期しない神のさばきによって苦難と苦悩に打ちのめされます。

(2) 破滅は拒絶した者に正気をもたらすが、時すでに遅し

●「そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。」(28節)とあります。悔い改めのチャンスを逃すことは破滅の運命を免れることができなくなるということです。

(3) 破滅は自らが招いたもの

●「彼らは自分の行いの実を食らう」(1:31)とあります。さばきは神の責任ではなく、自ら招いたものだとしています。




2015.10.21


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