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礼拝用語Ps10

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詩10篇「なぜ、なにゆえ、どうして」 לָמָה ラーマー   

〔カテゴリーその他〕

1節「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのとき、なぜ、身を隠されるのですか。」
13節「なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか」(13節)

Keyword; -信仰を深化させる問いとしての「なぜ」「なにゆえ」「どうして」why, 2:1/10:1(2度),13/22:1/44:24,25/74:1,11

  • 詩10篇には3度(1節、13節)も「なぜ」ラーマー(לָמָה)という理由を神に問うことばがあります。しかも、作者は神の不在を感じています。その発端は悪者の道が「いつも栄え」(5節)、成功しているように見えるからでした。勝手気ままにしながら栄えている現実に、神は沈黙し、遠くにおられるように作者には思えたのです。
  • 詩2篇においても、「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。」(1節)という天的現実があるにもかかわらず、「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。」との地的現実があります。沈黙を続ける神に向って、耐え切れぬ叫びが「どうして」「なぜ」「なにゆえ」という理由を問う言葉となって投げかけられます。この叫びは、嘆きの詩篇の特長ですが、その叫びの根底には信頼があります。もし、信頼がなければ理由を問うことすらしないはずだからです。
  • ダビデは若くして、預言者サムエルを通してイスラエルの王となるべく任職の油を注がれました。しかし、それからダビデの苦悩は始まりました。自分の罪のゆえではなく、サウル王の嫉妬による執拗な殺意によってダビデは10余年の間、放浪を余儀なくされました。「どうして」「なぜ」「なにゆえ」という昼も夜も重くのしかかる問い、それは、長引く苦難の中で、神が遠くに感じられるような日々の中で、いかなる状況の中においても神を信頼するかどうかのテストでした。
  • ダビデの思いとは裏腹に、神の沈黙、神の不在の経験を通して、ダビデはいつしか「貧しい者」「みなしご」「しいたげられた者」と連帯していきます。ダビデが荒野の放浪を余儀なくされたとき、当時の社会では生きられなくなった者たちがダビデのもとに集まってきました(Ⅰサムエル22章2節)。ダビデは彼らと寝食を共にしながら、不条理と思える逃亡生活を10年余り続けました。ところが、やがてダビデがイスラエルの王として立てられたとき、彼らはダビデの身辺を守る命知らずの親衛隊となったのです。
  • いったいだれがこんなことを考えることができたでしょうか。信頼の絆は私たちの思いを越えたところで培われていきます。神の不在経験を多く通ることで、私たちの信仰の幻想は打ち砕かれて、より確かな神の臨在を感じるようになるのです。これこそ神の不在経験の隠された意義です。つまり、神の不在経験は神とのかかわりをより深化させるための神の配剤なのです。


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