礼拝用語Ps34
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詩34篇「味わう 知る」טָעַם ターアム רָאָה ラーアー
〔カテゴリー 賛美・感謝〕
8 節「主のすばらしさを味わい(טָעַם)、これを見つめ(רָאָה)よ。」(新改訳)
8 節「主の恵み深きことを味わい知れ」(口語訳)
Keyword; 「味わう」 taste 34:8
- 「味わう」と訳された「ターアム」(טָעַם)は、詩篇では34篇8節のみに出てくることばです。しかも、この箇所では「見つめよ」、「知れ」と訳されている「ラーアー」(רָאָה()とセットです。「ターアム」(טָעַם)は「味わう、口にする、なめる」という意味です。
- 「ラーアー」(רָאָה)は、「拝見する、見極める、見定める、見つめる、認める、見る、目をとめる、考える、悟る、楽しむ、選ぶ、顧みる、思う」と多くの訳語があります。
- 「ターアム」(טָעַם)と「ラーアー」(רָאָה)を合わせて考えると、自分のこととして体験的に味わうことを意味します。TEV訳の find out yourself はまさに、あなた自身が自分でそれを見出し、体感せよ、との意味です。どんなにすばらしいことであっても、自分自身のこととして体感できなければなんら意味がありません。
- 「味わう」べき事柄(内容)は、ここでは「主のすばらしさ」です。原語では「トーヴ・アドナイ 」(טוֹב יְהוָה)は「主は善い方です」という意味です。このことを深く味わい、見極めることこそ信仰者の幸いにつながります。主は善い(良い)方であり、善いことしかできない方であることを見極めることができるならば、私たちが経験するさまざまな出来事も、意味あるものとして受け取ることができるはずです。そうでなければ、主は私に意地悪をしているように思い-たとえ自分では意識していなくてもー、主を赦すことができなくなります。その結果、不信仰になり、神とのかかわりや祝福を失ってしまいます。
- 神の善「トーヴ」(טוֹב) goodnessは、自然界においては、一羽の雀さえも顧みて下さり、一輪の花にも着飾って下さる方として現わされます。また人に対しては、恵み(気前の良さ)、忍耐、赦しとして表わされます。この地上の父でさえ、自分の子どもに良いものを与えるとすれば、天の父はご自分の子に対してはなおさらのことです。たとえ今、喜ばしいこととは思えないことであっても、後で、平安の義の実を結ばせて下さるのです。ヘブル12章参照。
- 神を善い(良い)方として味わうためには、主にとどまることが必要です。多くの働きを通して、その中でそのことを味わおうとすれば、やがて失望する運命にあります。自分の心の底から、主は善い方であり、善いことしかおできにならない方なのだという信仰の種を根づかせる必要があると信じます。そこから詩34篇の作者のように、賛美への誓い、賛美への勧め、主を恐れることの勧めが力を持つこととなるのです。