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神の主権的な計画による選び

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パウロのイスラエル論

2. 神の主権的な計画による選び

【聖書箇所】9章6~18節

ベレーシート

  • ユダヤ人がパウロの語る御国の福音を受け入れようとしないだけでなく、パウロに対して執拗に迫害し続ける現実をどう受け止めたらよいのか、パウロはずっと考え続けてきたと思われます。ローマ人への手紙を書く頃にはその答えが与えられていました。その答えとは、神のご計画がことごとく私たち人間の思惑とは異なり、神は主権をもってご自身のなさりたいようになさるのだということです。神の絶対的主権による結論を説明するために、3章分(9~11章)を費やしています。しかも多くの旧約聖書からの引用を自由に駆使して説明しています。9章だけでも、以下のように6箇所からの引用が見られます。

(1) 07節・・創世記21章12節
「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」
(2) 09節・・創世記18章10節
「・・あなたの妻サラには、男の子ができている。」
(3) 12節・・創世記25章23節
「『二つの国があなたの胎内にあり・・兄が弟に仕える。』」
(4) 13節・・マラキ書1章2~3節
「・・わたしはヤコブを愛した。わたしはエソウを憎み、・・」
(5) 15節・・出エジプト記33章19節
「・・わたしは自分のあわれむ者をあわれみ(「ハーナン」חָנַן)、自分のいつくしむ者をいつくしむ(「ラーハム」רָחַם)」、新改訳旧約出エジプト記33章19節「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」)
(6) 17節・・出エジプト記9章16節
「わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。」


1. 「イスラエル」という言葉の概念

  • パウロはローマ書の中で「ユダヤ人」という言葉を11回使っています。そのうち9回は1~3章に、後の2回は9章24節と10章12節です。一方、9~11章にのみ使われている「イスラエル」ということばは12回使われています。そこでの「イスラエル人」の意味は、アブラハムから始まる神の約束の子孫を意味しています。アブラハムには母親が異なる子どもがいます。女奴隷ハガルから生まれたイシュマエル、妻サラから生まれたイサク、そして妻の死後に再婚したケトラから生まれた5人の息子たちです。しかしパウロは「イスラエルから出る者がみなイスラエルなのではない」として、神のご計画のために選ばれたイスラエルはイサクから出る者であることを述べています。そのことによって、神のみこころは父アブラハムの思惑とは異なっていたことを述べています。
  • パウロはもう一つの例を挙げて、イサクの子ヤコブも、父の思惑とは異なっていたことを述べています。イサクの場合は父アブラハムとは異なり、一人の妻リべカの胎の中にエサウとヤコブがおり、誕生する前から「兄が弟に仕える」(ギリシア語原文直訳は「大が小に仕える」、あるいは「年上の者が年下の者に仕える」)という神のみこころがリべカには告げられていましたが、イサクは知らなかったようです。このようにしてアブラハムの思惑もイサクの思惑もことごとく打ち壊されています。

2. 事は、すべて神の主権による

  • 神のなさることが私たち人間の思惑を越えていることのさらなる例証は、出エジプトの際のパロの心のかたくなさです。「神の力と神の名を全世界に告げ知らせるために」、神がパロを立て、彼の心をかたくなにされたのでした。つまり、エジプトの王であるパロさえも完全に神のご計画の道具とされているのです。これはパウロに対して執拗でかたくななユダヤ人の型ともなっています。つまり、ユダヤ人のかたくなさは神によってなされたもので、福音が異邦人に向けられるためであることをパウロは知らされたのです。このように、すべてが神のご計画(みこころ)のままになされているのだとパウロは指摘しています。
  • 神の世界は神の主権によるものです。選びもあわれみも、御業の方法も時も、すべて神のみこころのままになされます。その意味では、全く人間の願いや努力や思惑を越えているのです。そのことを私たちは認めなければなりません。歴史の中に貫かれている神中心の思想、これが人間中心的思想(ヘレニズム)と対峙する神中心の「ヘブライズム」なのです。


2017.7.12


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