神の作品としての夫婦
箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。
聖書を横に読むの目次
29. 神の作品としての夫婦
【聖書箇所】18章22節
ベレーシート
- 石黒圭著「文章は接続詞で決まる」(光文社新書、2008)という本があります。ヘブル語を教える中で、私自身、それほど意識していなかった「接続詞」でしたが、この本を読んでから、改めて接続詞の重要性を意識するようになりました。接続詞について、これほど特化した形で書かれた本は類書がないようです。石黒氏は、接続詞を四種十類に分け、「論理の接続詞」(①順接、②逆接)、「整理の接続詞」(③並列、④対比、⑤列挙)、「理解の接続詞」(⑥換言、⑦例示、⑧補足)、「展開の接続詞」(⑨転換、⑩結論)としています。
- 接続詞の「そして、そこで、それで、それから、こうして、すると、さて、また、かつ、すなわち、つまり、しかし、ただし、ところで・・」などを意味する表現が、ヘブル語では接続詞の「ヴェ」(וְ)ひとつで表わされます。したがって、神の霊感によって書かれた聖書の文章をどのように理解し解釈すべきか、それはひとえに、この接続詞「ヴェ」(וְ)の解釈にかかっているということになります。ただし、新共同訳ではこの「ヴェ」(וְ)を基本的に訳さない方針のようです。
- 今回取り上げる箴言18章22節は、そのことを深く考えさせられます。まず原文を掲げてから、その意味について考えてみたいと思います。
1. 神の作品としての夫婦
- 18章22節は四つの文節からなります。四つとは、上記のように上段の動詞と名詞からなる二つの文節、下段の同じく動詞と名詞からなる文節と前置詞を伴った名詞句から成る二つの文節です。上段の二つの文節は、接続詞のない二つの文節が、ただ並列しています。しかし動詞は共通しており、先の文節の「彼は妻を見出した」ことと、後の文節の「しあわせを見出した」ことは同義だと理解できます。
- ところで、ひとりの「女性(妻)を見出した」ことが、なぜ、「しあわせを見出した」こととイコールなのでしょうか。たとえそのようであって欲しいと願ったとしても、現実は必ずしもそれがイコールとはならないものです。しかし、ここで使われている「見出した」と訳されている「マーツァー」(מָצָא)が、聖書で最初に使われている箇所を見ると理解できます。それによれば、神によって造られた人(「アーダーム」אָדָם)には多くの被造物を支配する権威が与えられていました。すべて造られたものに「名を付けた」という事の中にその権威を見ることができます。ところが、彼には自分の「ふさわしい助け手」をそれらの中には見出すことができませんでした(「ロー・マーツァー」לֹא־מָצָא)。「ふさわしい助け手」とは、彼と対等に向き合うことのできる助け手(パートナー)を意味します。ヘブル語では「エーゼル・ケネグドー」(עֵזֶר כְּנֶגְדּוֹ)と表現します。そのような存在が見出せなかったので、神は人を深い眠りの中に落として、彼のあばら骨の一部を抜き取って女(「イッシャー」אִשָּׁה)を造られ、それを人のところに連れて来られました。そうしてはじめて人は「ふさわしい助け手」である妻を見出すことができたのです。人は自分の妻である「エーゼル・ケネグドー」を見て大いに喜び、二人は結ばれて一体となりました。ですから、この夫婦は神の作品としての夫婦だと言えるのです。
- このように、自分にふさわしい助け手を見出すことができて、彼がしあわせを見出したのには、その背景に神の御旨(好意)があったことを伺わせます。そうした意味において、下段の冒頭にある接続詞「ヴェ」(וְ)の意味を考えるならば、ふさわしい訳語としては、石黒圭氏の分類にある「理解の接続詞」の中の「補足の接続詞」に当たる「なぜなら」「ただし」という言葉が最もふさわしいように思います。
- 「多くの接続詞は、先行文脈の内容を受けて、それが後続文脈にどう展開していくのかを示すものです。いわばベクトルが「→」の方向に向いていると言えます。ところが、そのベクトルを「←」の方向に向ける接続詞があります。それが、補足の接続詞です。」(同書、132頁)と石黒圭氏は説明しています。ここで接続詞を「そして」のように順接の意味にしてしまうと、理解が異なってしまうのです。まさに、「たかが接続詞、されど接続詞」です。
- 箴言18章22節にある上段の「自分にとってふさわしい助け手である「妻」を見出し、しあわせを見出した人」というだけでは、22節で言わんとすることの情報が不足しているために、それを補う情報が必要とされたことを意味しています。ですから、下段の冒頭にある「ヴェ」(וְ)を「なぜなら」、あるいは「ただし」という意味に理解して、人が妻を見出し、しあわせを見出すことができたのは、神の好意が与えられた(注がれた)からだという含みを示しているのです。
- 22節の後半の部分と全く同じ表現を使っている箇所が箴言の中にあります。
【新改訳改訂第3版】箴言8章35節
なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、
【主】から恵みをいただくからだ。
- 原文では、「なぜなら」と訳された接続詞(「キー」כִּי)が冒頭にあり、「彼はわたしを見出した」という文節と、「彼はいのちを見出した」という文節が18章22節と同様に並列されています。その後は18章22節の下段の部分と全く同じなのです。つまり、「彼は主からの好意(恵み)を得た(注がれた、いただいた)」とあります。
- 「得た」が未完了の動詞にもかかわらず、完了形の意味となっているのはヴァヴ継続法によるものです。冒頭の「キー」は「なぜなら」と訳すよりも「まことに」と訳し、「ヴァヴ」を補足の接続詞「まことに、わたしを見出した者は、いのちを見出した者である。なぜなら、主からの恵み(好意)が注がれたゆえである。」と訳すことができます。
2. 家庭の根幹である結婚に対する神の目的
- 18章22節で語られている格言を正しく理解するためには、結婚に対する神の目的を理解しておく必要があります。結婚に対する神の目的は不変です。旧約聖書では創世記2章24節に、新約聖書では、マタイ19章5節、マルコ10章7~8節、エペソ書5章31節に記されています。新約はいずれも創世記2章24節のみことばが引用されています。旧約の箇所は人が罪を犯す前、新約は人が罪を犯した後です。しかし、いずれの場合においても神の目的は変わりません。
- 「男が父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となること」、これが神の結婚の目的であり、神の永遠のヴィジョンにおける写しでもあるのです。この神の目的を正しく理解することが、祝福された結婚へと導かれることになると信じます。
2016.1.15
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