****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神の家族における神のトーヴ

7. 第六瞑想 神の家族における神のトーヴ

【聖書箇所】 詩篇133篇、イザヤ書44章25節

【新改訳改訂第3版】都上りの歌。ダビデによる
1  
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
2
それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。
それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
3
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。
【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。


はじめに

  • 1節の「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」ここには驚きがあります。「共に住む」は原文では「共に座る」とあります。つまり共に座って食卓を共にし、共に語り合う、共に学ぶ姿、団欒を共にするーそれが「共に座る」ことであり、「共に住む」ことなのです。
  • ある作家の講演が道新に載っていました。以下がその掲載文です。

    「彼の両親は、会津から北海道へ出稼ぎに来て、そのまま滝上町(オホーツク側の紋別にある芝桜で有名な「たきのうえちょう」)というところに住み着いて、炭焼きの仕事を16年ほどしました。その作家は炭焼き小屋で生まれ、4歳くらいまでそこで育ったそうです。炭焼き小屋というのは、非常に質素な作りの建物ですが、彼にとっては家であったのです。なぜならそこには家族がいて、一諸に食事をし、生活していたからです。
    狭い家に10人家族が暮らしていました。中学1年まで父と同じ布団に寝ていたほどで、もちろん勉強部屋もなく、夕食の後は茶の間で勉強したり、本を読んだりしていました。おなじ空間に住んでいるわけですから、両親の家計の厳しさも、子供ながらにひしひしと感じていた。親が子供に見栄を張ることがないため、子供のほうも、ほしい物が買ってもらえなくても、黙っているしかなかった。
     そんな彼が大人になり、結婚し、子供も与えられて、一戸建ての家がほしいということで、新築の家を建てた。しかしこれが失敗だった。小説を書くために、何よりも書斎を中心に考えて、20畳ほどの広さを取ったため、台所や居間などに広さも予算を割けず、その結果、家族が集まる団欒の場所を圧迫してしまった。そうなると、家族の生活そのものがおかしくなってしまった・・・・」

  • 共に座って食卓を共にし、団欒を共にすることがいかに大切かを伺わせます。

1. 「共に住む」ことの祝福

  • 「家の中で共に住むということは、家族が集まる場所を確保し、そこで食卓を共にすることなのだ、とその作家は言っています。」 家族のしるしとは、食卓を共にすることー同じテーブルで同じ時間に、同じものを食べる、同じ時を過ごすことといことです。神の家族も同様です。神の食卓を共にするということは、同じ時間に同じ神のみことばを食べ、味わい、そしてそれを分かち合うことです。神の家に集い、神を賛美し、神のみことばを共に聞くーこれが神の家族としての姿なのです。
  • 「共に」ということば 「一緒に」(ヤーハドיָחַד)
    「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」
    「共に」ということばは聖書の中には484回、「共に集まる」ということばは97回示されています。
    共に集まり、共に歌い、共に礼拝し、共に戦い、共に交わり、共に苦しみ、共に喜び、共に泣き、共に助け合い、共に結ばれ、共に住み、共に成長し、共にいこい、共に包まれ、共に編みこまれ、共に形づくられ、共に組み立てられ、共に働き、共に歩み、共に語り、共に親しく交わり、共に建て上げる。
  • 神は、神の民が、「共に」あることを意図されました。神の家において「共に住む」ことの祝福が、詩篇133篇では二つのたとえで表現されています。

(1) 末広がりの恩寵として(2節)

  • 大祭司を通して、神の民全体に流れしたたる祝福の油は特別な祝福、あるいは歓迎のしるしです。大祭司は旧約ではアロンでしたが、新約ではイエス・キリスト(Jesus)です。つまり、大祭司を通して「共に住む」ことが実現されるのです。
  • 教会はキリストのからだであり、そのからだのかしらはキリストです。この空知太教会のかしらはキリストで、牧師ではありません。お間違えなく。からだはかしら(頭)を通してすべての祝福がきますから、からだにつながるひとりひとりがかしらなる主イエス・キリストにつながっていなければこの詩篇133篇のように「見よ、兄弟たちが一つになって共に住む」ということはなんというしあわせ、なんという楽しさであろう」ということは経験(体験)することができません。このしあわせ、楽しさというリアリティを経験するためには、私たちが主にあって「共に住む」ことを通してです。
  • しかも面白いことに、「共に住む」ことが「芳しい油」―ヘブル語では「良い油」で、油を意味する「シェメン」と良いを意味する「トーヴ」が合わさって、良い油、芳しい油―にたとえられています。大祭司アロンの頭にそそがれ、それがアロンのひげに滴り、ひげから衣の襟にまで流れ滴っていくーそんな末広がりの祝福にたとえられています。「神の家族が共に住む」という祝福が、とどまることなく、上から下へ、末広がりに流れていく様を描いています。

(2) いのちをもたらす露として(3節)

  • 「共に住む」ことのもうひとつの祝福は、「シオンの山々に下りるヘルモンの露」にたとえられています。「シオンの山々に下りるヘルモンの露」とはどういう意味でしょう。イスラエルは雨季と乾季がはっきりしていて、乾季の時はほとんど雨が降りません。ところが乾季(5月~10月頃まで)には多くの果物がなります。どうして雨が降らないのに果物がなるのでしょう。それは露のせいです。「露」は寒暖の差が大きいとより多くできます。ヘルモンは、おびたただしいほどの露を発生するのですが、シオンにそうしたヘルモンのおびただしいほどの露が降るということは、本来、ないのですが、兄弟たちが「共に住む」ということの中に、そうしたヘルモンの露にも似た霊的な祝福が注がれるというのです。つまり、多くの結実がみられるという意味です。なぜなら、その理由は、「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたから」なのです。つまり、「共に住む」というところに、主は「とこしえのいのちの祝福を命じられた」のです。ここでいう「いのち」とは、交わりです。愛の交わりです。
  • 詩篇133篇の二つのたとえのなかにある「とうとい油(芳しい油)」と「露」は聖霊の象徴です。
  • 初代教会においては、聖霊によって、この「共に住む」という一致のヴィジョンが実現した姿を記しています。使徒の働きの2章にそれが示されています。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。」とあります。それぞれが、自ずと、強制されてではなく、自発的に、ささげることによって「共に住む」ための必要がまかなわれました。46節には、「そして毎日、心を一つにして、宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。
  • ここには初代教会に実現していた兄弟たちが「共に住む」という姿が記されています。「主が、そこにとこしえのいのちの祝福を命じられた」というリアリティ(現実)が存在していただけです。しかも、彼らは特別伝道集会を開いたわけでもなく、トラクト配布したわけでもないのに、主が、救われるべき人々をそこに招き、加えてくださったのです。

2. 「共に住む」ことの困難さと克服

  • さて、このように「共に住む」ということはなんという祝福でしょうか。しかし同時に、それはなんと困難なことでしょうか。今回は、「共に住む」ことを困難にしている私たちの罪として、ひとつだけを取り上げたいと思います。その罪とは「赦さないという罪」です。これが「共に住む」ことを困難にします。
  • 「ヤマアラシのジレンマ」―人は共に生きることを通して生きる喜びを神からいただきます。人はひとりでいるのは良くない(ふさわしくない)からです。ところが、 人は共に生きることで、傷つき、苦しみ悩む。共に生きることの必要感じながら、共に生きるこの困難さを感じているのです。これがヤマアラシのジレンマです。なぜ、共に生きることに苦しむのか。その理由の一つは、ヤマアラシのようにそれぞれがみな刺をもっているからです。
  • 普段はその刺は隠れている。人との距離を適当に置いていれば、お互いに刺し合うということはありません。しかし一緒にやっていこうとすると、お互いの持っている刺で互いに刺し合ってしまうのです。共に生きるときに苦しむ理由は、刺によって傷つけられたとき、傷つけた人を赦すことが難しいからです。
  • 赦しのテーマは、私たち人間にとって実に重いテーマであり、考えること自体、大きなエネルギーのいることです。できれば考えないでやり過ごしたい課題です。現在、赦しという問題で悩み葛藤している人や、どうしても赦すことのできない人の顔が浮かぶ人にとっては、なおさらしんどいテーマです。しかしこの問題を避けて、神の祝福を受けることはできません。共に生きる喜びを見出すことはできません。私たちが幸せに生きることと、赦すということは密接な関わりをもっているのです。愛することは赦すことです。赦すことは私たち人間の努力によってはできないことですが、神がその克服の道を開いてくださっています。

(1) 自分が神によって赦された者であることを知る

  • どうしたら人を赦すことができるのか。それは、私たちが自分自身の神に対する罪の大きさを知り、認めることです。マタイ18章にあるイエスのたとえの中で示されているように、人を赦す前に自分がどれだけ赦されたのかを知らずにいると人の罪を赦すことができません。1万タラントを赦された者が、百デナリの負債を赦すことができなかった人の話しです。割合としては1/600万です。
  • マタイ18章のたとえ話の中心点は、35節にある「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」という部分でする。「このように」とは「獄吏に引き渡される」ということです。あなたの人生が常に「束縛された状態、捕らわれた状態」になることを意味します。神の赦しと人の赦しは常に表裏一体をなしているのです。
  • このマタイ18章のたとえでは、人の罪(負債)を赦すことですが、赦しの相手が人とは限りません。それは自分自身であったり、神であったりするのです。特に、不幸な境遇に育った人はそうした思いにかられやすくなります。神がどこまでも「良い方」であることを信じることができないばかりが、「神が良い方である」ということばに対して怒りさえ感じられるのです。神を信じるようになっても、心のどこかで神を赦していないならば、やはり同じように、「束縛された状態」に置かれることはいうまでもありません。神は良い方であるという信仰は私のものの見方を一新され、神の視点からものごとを考えられるようになるのですが、ひどい境遇の中に置かれて心が深く傷ついている人は、そうした見方で神を見ることは人以上に難しいのです。しかし人にはできなくても、神にはできます。変えていただくことができるのです。

(2) 赦しは人のためではなく、自分のために必要だと気づくこと

  • そのためには、「赦しは人のためではなく、自分自身のために必要だ」ということに気づくことです。「情けは人のためならず」ということわざがあります。そのことばをもじって、「赦しは人のためならず」、赦しは私自身のためだということを最後にお話したいと思います。
  • 赦すことはやさしいことだと言える人はいないと思います。大変むずかしいことです。赦しについての教えを聞いたり、学んだりすることはそれほど難しいことではありません。礼拝を守ることも、賛美することも赦すことに比べるならば楽なものです。しかしひとたび、人が自分に対して傷つけたことに対して赦すとなると、とても難しくなるのです。事柄によっては、赦すことはそれほどむずかしくないことはあります。説教中に眠ったりしたとしても赦せます。だれかの携帯電話がなっても赦せます。だれかが私の名前を忘れても赦せるでしょう。しかしもしだれかが私の悪口を言ったり、中傷したりした場合には、赦すことは難しくなります。しかしそういうときでさえも、聖書は赦すように語っているのです。それは、私やあなたのためです。「赦しは人のためならず、私やあなたのためです。赦すことができずに人を恨み、報復するならば、あなたが惨めになるばかりであり、やがてあなたが獄吏に引き渡され、破滅してしまう危険さえあるからです。
  • 「赦しは人のためならず、あなた自身のためである」という教えのルーツは、神ご自身が私たちの罪の赦しを、神ご自身のためだと述べているからです。イザヤ書44章25節を読んでみましょう。

    わたし、このわたしは、わたし自身のために
    あなたのそむきの罪をぬぐい去り、
    もうあなたの罪を思い出さない。

  • ここには、罪の赦しが神ご自身のためであるということが言われています。これは意外なことと感じられると思います。「背きの罪をぬぐい去り」「あなたの罪を思い出さない」のは、私たち自身のためというよりも、むしろ、神のためであるということが書かれているのです。
  • 罪とは神に背くことです。神に敵対することです。それゆえ私たち人間が神に罪を犯すときには、神が傷つけられるのです。神の目には私たちは高価で尊いのですから、その私たちが神に背くならば、神の心を傷つけ、神の名誉や栄光を傷つけているのです。
  • ならば神様の方も、私たち人間がそうなら神もといって、私たちをさばいて滅ぼし、神の名誉を回復するという道もありえます。しかし神はそうされませんでした。対立は対立を呼びます。たとえ従っているように見えても、それは恐れのゆえであって真の心からの愛によるものではありません。それではいつまで立っても、神の栄光は現わされない。罪を犯したからその刑罰を与えているだけでは、本当の自発的な愛というか、信頼関係は生まれないことを知っていました。それゆえ神はご自分に対立する人間の罪を赦して、愛の内に包み込むことによって、反抗する心を征服しようとされたのです。つまり、赦すことによって、相手を力でなく、愛によって征服する道を取られようとされたのです。
  • 神は、本来人間を愛して生かすために創造されました。それゆえその創造された人間を滅ぼしてしまっては元も子もなくなる。それで律法によるさばきとは別の道、すなわち、福音の道―それは罪を赦すことにおいて、人の心を勝ち取り、傷つけられた神の栄光を回復しようとするという宣言がなされているのです。それが、イザヤ43章25節のみことばです。私たちも神にならって、自分のために、人の罪を赦すことを自ら決意しなければなりません。
  • 私たちは今朝、詩篇133篇は「共に住むこと」、「共に生きること」がいかにすばらしい祝福であるかを学びました。しかしそれは神によってしか実現しないものです。「主が家を建てるのでなければ、すべて虚しいのです。」それゆえ。私たちは神に祈り、共に住むことの幸いを味わうことができるように、神にならうことができるように祈らなければなりません。それは人の罪を赦すことは、自分自身のためであることを知り、それを経験するようになることです。そのために、「そうしていこう」という意味のある決断が必要ではないかと思います。

2012.4.29


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