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神は、ヨセフの中にそれをあかしとされた

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113. 神は、ヨセフの中にそれをあかしとして置かれた

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【聖書箇所】 詩篇81篇5(6)節

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【読み】
エードゥート ビホーーフ サーー ベツェーー アル・レツ ミツイム セファト ー・ヤダアティー エシェ

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
神が、エジプトの地に出て行かれたとき、ヨセフの中に、それをあかしとして授けられた。私は、まだ知らなかったことばを聞いた。
【口語訳】
神が出てエジプトの国を攻められたとき、ヨセフのなかにこれを立てて、あかしとされた。わたしはかしこでまだ知らなかった言葉を聞いた、
【新共同訳】
エジプトの地を攻められたとき/ヨセフに授けられた定め。わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
【岩波訳】
定めとしてヨセフの中にかれはこれを置いた、エジプトの地に抗して彼が出たとき。私の知らぬ言語を私は聞く。
【NKJV】
This He established in Joseph as a testimony, When He went throughout the land of Egypt ,Where I heard a language I did not understand.
【NIV】
He established it as a statute for Joseph / when he went out against Egypt, / where we heard a language we did not understand. {[5] Or | <and / we heard a voice we had not known>}


「ヤーツァー」(יָצָא)の本来の意味は、新改訳のように「出て行く」、あるいは「出て来る」という意味ですが、口語訳、新共同訳は「攻める」、岩波訳は「抗する」と訳しています。これは、神がエジプトに対決するために出て行かれたことを意味します。なぜなら、エジプトは神に敵対する「獣の支配する地」だったからです。ここでのエジプトは、型として、比喩として用いられています。

エジプトのパロは自分のことを「自分の川の中に横たわる大きなわに」とし、「川は私のもの。私がこれを造った。」と言っていました(エゼキエル書29章3節)。「川」とはエジプトの繁栄の支えとなるナイル川のことで、「わに」はその川に住む「竜」のことです(イザヤ27:1/51:9、アモス9:3では「蛇」)。訳語が異なっても原語は「タンニーンתַּנִּיןで、旧約聖書では14回使われています。日本語聖書では「海の巨獣」「海の獣」「竜」「龍」「わに」と訳されています。LXXでは「ドラコーン」δράκωνと訳しています。新約聖書で「ドラコーン」はヨハネの黙示録にのみ使われている語彙で(13回)、竜、大蛇、悪魔でありサタンの化身です。英語では「ドラゴン」(dragon)です。

【瞑想】

詩篇81篇5節は、3節の「われらの祭りの日の、新月と満月に、角笛を吹き鳴らせ」という預言的なことばと関連しています。詩篇には預言書と同様に、作者の意図を越えて預言的な内容、特に終末的内容が語られている場合があります。「神が、エジプトの地に出て行かれたとき」とは、神が獣の支配する地に対決するために出て来られたことを意味し、それは終末(世の終わり)の「キリストの再臨」のときを預言しています。すでに、神は「ヨセフの中に、それをあかしとして授けられ」ていました。「それ」とは、キリストの再臨を意味する「満月」のことです。このことについては、詩篇81篇3(4)節の「ヘブル語デイリー・ブレット」をご覧ください。

ところで、神はどのようにヨセフの中にそれをあかしとして置かれたのでしょうか。ここがこの詩篇の最も重要な点です。霊的指導者であった作者のアサフは、ヨセフという人物とその生涯についてすでに知っていたはずです。ところが彼はそのヨセフの生涯の中に、彼が聞いたことのないことばをはじめて聞いたのです。それは世の終わりについての啓示でした。特に、詩篇81篇7節以降の鍵語は「ためす」(7節)と「かたくなな心」(12節)です。その内容は謎めいていますが、ある視点から見るなら筋が通る事柄なのです。そのことがアサフの言う「まだ知らなかったことば」です。

ちなみに、ユダヤ教ではモーセ五書を1年周期で毎週読み続けます。その週ごとの朗読部分のことを「パラシャー」(あるいは「トーラー・ポーション」)と言います。それぞれのパラシャーには呼び名がつけられています。創世記は12のパラシャーに分けられていますが、創世記41章はその10番目のパラシャーが始まる箇所です。そしてそのパラシャーのタイトルは「ミッケーツ」(מִקֵּץ)です。

創世記41章は「それから二年の後、パロは夢を見た」(1節)で始まります。ここでの「・・の後」と訳されている語が「ミッケーツ」(מִקֵּץ)です。「ミッケーツ」は前置詞の「ミ」(מִ)と名詞の「ケーツ」(קֵץ)が結びついた語です。「ケーツ」は時間的には「終わり」を意味し、空間的には「果て」を意味します。他に「終末、最後、最期」をも意味します。

パロは二つの夢を見たのですが、心が不安になりエジプト中の呪法師とすべての知恵ある者たちを呼び寄せて、彼らに自分の見た夢を話しました。ところがその夢を解き明かす者がだれひとりとしていませんでした。自分の夢を解き明かす者がいないことにがっかりしているパロを見て、献酌官長が2年前に自分の夢を解き明かしてくれた青年のことを思い出したのでした。この青年とはヨセフのことです。このヨセフがパロの夢を解き明かしたことによって、ここからヨセフ物語が急展開していきます。そしてヨセフはエジプトの宰相として抜擢されることになります。 こうした流れの転換部に「ミッケーツ」という言葉があるのです。

「二年の終わり」とは「三年目のはじまり」に限りなく近づいていることを意味しています。ユダヤ的視点から見るなら、この時に新月の「角笛」が吹き鳴らされるのです。ヨセフの物語はまさに「世の終わり」のことを啓示しているのです。

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神がヨセフの生涯においてあかししている事柄ーすなわち、世の終わりについての重要なポイントーについては、こちらのファイル(改訂版)ををご覧ください。


2013.6.22


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