****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神殿建設の開始と完成、および神殿の概要

文字サイズ:

列王記の目次

06. 神殿建設の開始と完成、および、神殿の概要

【聖書箇所】 6章1節~38節

はじめに

  • 6章では、神殿の建設の開始とその完成の時期についての記述と神殿の概要が記されています。
開始の時期即位してからの時期出エジプトしてからの年月
ジフの月(第二の月)4年目480年目
完成の時期即位してからの時期出エジプトしてからの年月
ブルの月(第八の月)11年目487年目
  • 神殿の建設が始まってから、正確には、7年半後に完成しています。ジフの月は過越祭から50日後の収穫祭頃に当たります。また、その半年後のブルの月、つまり、仮庵の祭りの頃に神殿し完成したことになります。

画像の説明

画像の説明

列王記第一6章には、ソロモンの神殿についての長い記述がありますが、細部の記述が十分でないために、その記述から神殿を復元することができないとされています。私たちが見るソロモン神殿図は、古代カナンやシリヤの神殿を発掘した結果をもとに復元が試みられていることを念頭に置く必要があります。


1. 神殿の概要

(1) 規模

  • 神殿の構造はモーセの幕屋と同じですが、規模はモーセの幕屋と比べて2倍です。その全体の寸法は長さが60キュビト、幅が20キュビト、高さが30キュビト。内堂と呼ばれる至聖所の寸法は長さが20キュビト、幅20キュビト、高さも20キュビトで正方形の立方体です。

(2) 材料

  • 神殿の内側(聖所)の壁は石材に杉の木の板をはり、壁も天井もすべて板を張り、床にはもみの木が張られました。また、至聖所(内堂)は床から天井まですべて杉の板が張られました。つまり、石の見えない状態になっています。しかも至聖所のみならず、神殿全体の隅々まで金がかぶせられました。床も然り。また、至聖所に置かれた祭壇とケルビムにも金がかぶせられました。すべてが金、ここがモーセの幕屋と異なる点です。モーセの幕屋で金がかぶせられたのは角材、アカシア材でしたが、ソロモンの神殿では石や木材すべてに金がかぶせられました。そのことによって、モーセの幕屋は一時的なものであり、ソロモンの神殿は永続することを示しています。

2. 石切り場で完全に仕上げられた石

  • 6章には不思議な記述があります。それは、神殿の骨格の材料となる石が、建設現場で仕上げられることなく、すでに石切り場で完全に仕上げられていたということです。

【新改訳改訂第3版】Ⅰ列王 6:7
神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音はいっさい神殿の中では聞かれなかった。

  • 日本の住宅会社「セキスイハウス」のように、家を建てるときに、すでにそれぞれの部分が組み立てられていて、それを現場でただ組み合わせるという建築方法がありますが、まさにそれと同じく、神殿で使われる石も、寸法通り、正確に、すでに石切り場で仕上げられており、現場ではただ組み立てられるだけだったようです。それゆえに、工事中、道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかったということです。これは驚きです。
  • 「完全に仕上げられた石」はへブル語で「エヴェン・シェレーマー」אֶבֶן־ שְׁלֵמָהです。新共同訳は「よく準備された石」、関根訳は「手を加えた切り出された石」と訳しています。6:7では、形容詞「シャーレーム」の女性形が使われていますが、意味としては、「自然なままの」、あるいは「完全な」という意味があります。イスラエルの民が約束の地に入って、祭壇のための石の場合には、「ありのままの石」を使うように神は命じています。つまり、人の手が加わえられていない「ありのままの石」です。つまり、掘り出されたままの状態をへブル人たちは「完全な石」と呼んだのです。しかしソロモンの神殿では、それとは逆に「人の手が加えられて仕上げられた石を「完全な石」と表現しているのです。この矛盾をどのように理解すればよいのでしょうか。
  • 「自然なままの石」についての言及は、申命記27章4~6節にあります。

新改訳改訂第3版 申命記27:4~6
4 あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。
5 そこに、あなたの神、【主】のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない
6 自然のままの石で、あなたの神、【主】の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、【主】に全焼のいけにえをささげなさい。

  • 申命記の「ありのままの石」は原文のヘブル語では複数形になっています。「石」が複数形であれば、形容詞も複数形となります。ですから、原文は「アヴァーニーム・シェレーモート」אֲבָנִים שְׁלֵמוֹתとなっていますが、「完全な石」(「エヴェン・シェレーマー」)と同様の言葉です。いわば、単数か複数かの違いです。
  • 祭壇に使用する人の手を加えない自然の「ありのままの石」も、神殿に使うために人の手を加えて「完全に仕上げられた石」も、全く同じ言葉で表現されているということはなんとも不思議です。前者は形も悪く、どれも不揃いであるゆえに組み合わせにくいはずです。ところが、後者は積み上げやすいように石をそれぞれ手を入れて整えて見栄え良くするのです。自然のあるがままの石も「シャーレーム」、手を入れて完に仕上げた石も「シャーレーム」なのです。
  • このなぞを解く糸口は、この「シャーレーム」という形容詞にはもうひとつ、「平和な」とか「親しい」という意味があることです。神には、自然のありのままの石も、また仕上げられた石も、共に受け入れておられるという点です。ソロモンの神殿建設で使われた石は「石切り場で仕上げられた石」です。それゆえに、神の臨在する神殿の建設現場においては「なんら音は聞かれることなく」という表現が象徴するかのように、そこには平和が、平穏さが保たれています。神の臨在する場所はまさに神と人とのかかわりが「平和に」保たれる場所でなければなりません。「石切り場で仕上げられた石」とは、私たちが人間的な力で完全になるということではなく、神の霊によって仕上げられることを意味しています。
  • 新約の光でこのことを理解するとすれば、「ありのままの私たち」が、キリストによって切り出され(選び出され)、聖霊によって仕上げられた者とされるとき、そこには争いがなく、神のシャロームが建て上げられるということではないかと思います。それゆえに、使徒パウロは神に召された者たちに対して、「平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ4:3)と勧めています。この聖句の強調点はまさに「平和を熱心に保つ」ということにあります。なぜなら、そこにこそ神の臨在が現わされて、聖なる宮となるからです。

3. 壮麗な神殿建設と神の祝福とは別物

  • とかく私たちは立派な神殿を建築すれば、神の臨在と恩寵は増し加わると錯覚しやすい。そのような危険に陥ることのないように、神は釘を刺しています。

新改訳改訂第3版 Ⅰ列王記6章11 ~13節
そのとき、ソロモンに次のような【主】のことばがあった。
12 「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。
13 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」


2012.9.11


a:13609 t:2 y:10

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional