****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

祭司職の初仕事とそこに現わされた主の栄光

文字サイズ:

レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

8. 祭司職の初仕事とそこに現わされた主の栄光

ベレーシート

  • レビ記8章で祭司職のために聖別されたアロンとその子らは、9章でその初仕事を執行します。その手始めは、祭司職を代表する大祭司アロンとイスラエルの民のための贖いをすることでした。
  • 主が命じられたことを行った後で、モーセとアロンが会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福すると、主の前から火が出て来て祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪を焼き尽くすという主の栄光が現わされました。

1. 祭司用とイスラエルの民用の贖いのためのささげ物

  • まず、祭司用とイスラエルの民用のささげ物を比べてみましょう。

画像の説明

  • 「罪のためのいけにえ」の血は祭壇の角に塗られ、残りの血は祭壇の土台に注がれます。脂肪の部分と腎臓と肝臓の小葉は祭壇の上で焼いて神への香ばしいかおりの煙とし、その他の部分(肉や皮)は宿営の外に運ばれ、火で焼かれました。祭司用もイスラエルの民用も、主にささげられたいけにえはそれぞれ一頭ずつ(単数)でした。

2. イスラエルの民に対するアロンの祝福

  • 「罪のためのいけにえ」によって罪は贖われ(赦され)、「全焼のいけにえ」の香ばしい香りによって神に受け入れられ、「穀物のささげ物」によっていのちが与えられ、「和解のいけにえ」によって神との完全な交わりが回復された後に、「アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、・・」とあります(22節)。民数記6章「アロンの祝祷」が記されています。それによれば、以下の通りです。

【新改訳改訂第3版】民数記6章24~26節
24『【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。
25【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
26【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』

  • 大祭司アロンが最初に民を祝福した時にこの祝祷がなされたのかどうかは定かではありません。しかしそれは十分に考えられることなのです。なぜなら、この祝祷はアロンやその子らが考え出したものではなく、モーセを通して主から指定されたものであったからです。しかも最後のいけにえが「和解のいけにえ」であったことから、この祝祷の最後の部分である「【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』」とは、ぴったりと合致しているのです。
  • この「祝祷」のすばらしさは、「【主】が御顔をあなたに照らし」「【主】が御顔をあなたに向け」とあることです。「御顔」は神ご自身を表しますが、その御顏がもし隠されるならばどういうことになるでしょうか。おそらく恐るべき暗黒の叫びとなるはずです。事実、詩篇には「どうか、御顔を私に隠さないでください。見捨てないでください。」といった叫びが散見されます(27:9、69:17、102:2、143:7を参照)。神の御子イェシュアこそ「御顔を隠される」ことがどういうことかを真に知り得たただ一人の方でした。イェシュアこそ御父のふところにおられたひとり子なる方でした。地上のすべての日々を神の聖なる御顔のうちに歩まれた方です。神の御顔の中にある満ち満ちた喜びを知っておられた方です。その方が十字架の上において、「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」という最も深い苦悩の叫びをなされたのです。しかしイェシュアは同時に神の御顔が再び輝くことを待ち望んでおられたのです。よみがえりを予期し、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、・・いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:10~11)と確信しておられました。なぜなら「神の御顔を仰ぎ見る」ことこそ、永遠の御国における祝福だからです(黙示録22:4)。その意味において、アロンの祝祷はまさに神のご計画の実現を指し示す預言的な祝祷と言えるのです。
祭司の祝福の手.JPG
  • ちなみに、ユダヤ教によれば、アロンの祝祷は両手を前方に肩の高さに伸ばし、右図にあるような手の形(扇の形)で祝福したようです。この指の形は「ひづめが分かれた」きよい動物の「型」です。「ひづめの分かれた」というヘブル語は「パーラス」(פָּרַס)で、その語彙には「パンを裂く」という意味があります。やがてイェシュアが「これはわたしのからだです」と言って、パンを裂いて弟子たちに与える「最後の晩餐」を思い起こさせます。大祭司アロンの祝祷の手の形は、まさにご自身のからだを裂いて与えるイェシュアを示唆しています。

3. 主の前から出た来た火

【新改訳改訂第3版】レビ記9章23~24節
23 ついでモーセとアロンは会見の天幕に入り、それから出て来ると、民を祝福した。すると【主】の栄光が民全体に現れ、
24 【主】の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。


●「焼き尽くした」と訳されたヘブル語動詞は「食べる」を意味する「アーハル」(אָכַל)。その主語は「火」(אֵשׁ)で、直訳は「火が祭壇の上にある全焼のいけにえとその脂肪を食べ尽くした」となります。

●「叫んだ」と訳された原語の「ラーナン」(רָנַן)は、「喜び叫んだ」という意味であり、恐れのゆえに叫ぶというイメージではありません。

●「ひれ伏した」と訳されたヘブル語の直訳は、「彼ら(すべての民)は、彼らの顔の上に倒れた」です。

画像の説明

  • アロンの祝祷は主の栄光の顕現をもたらしました。その栄光の現われは「主の御前から火が出て来たこと」です。天から下された火(炎)ではなく、すでに完成した幕屋の上には主の栄光の雲(昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火)があり、主の栄光が幕屋に満ちていたわけですから、おそらく、その栄光の火が聖所を突き抜けて祭壇にまで出て来て、祭壇の上にあった全焼のいけにえと脂肪を焼き尽くしたと考えられます。しかもそれを、祭司とイスラエルの民のささげ物が神に受け入れられたことを示す光景だと信じたイスラエルの民が、主に対して「叫び、ひれ伏した」のだと思います。

2016.5.18


a:6561 t:2 y:5

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional