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私のたましいは黙って、ただ神を

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59. 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む

【聖書箇所】 詩篇62篇1(2)節

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【読み】
アフ エル エローヒーム ドゥーミッヤー ナフシー ミッメヌー イェシューアーティ

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
【口語訳】
わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。
【新共同訳】
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
【岩波訳】
神にのみ向かう、わが魂は沈黙して。わが救いは、かれから。
【関根訳】
わが魂はもだしてただヤハウェを待つ、わが救いは彼からくる。
【フランシスコ会訳】
わたしの魂は ただ神においてやすらぐ。わたしの救いは神からくる。
【バルバロ訳】
神においてのみ、私の魂はいこう、神から私の救いは下る
【NKJV】
Truly my soul silently waits for God; From Him comes my salvation.

【瞑想】

ここのフレーズには動詞が一切ありません。そのために、ことばをどうつなぐか難しく、翻訳者によってまちまちです。

このフレーズの中で特に取り上げたい言葉は「沈黙」です。新改訳はこの語彙を「黙って待ち望む」と理解し、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」という独特な訳になっています。

「沈黙」とは、単に、何も言わず、黙しているということでなく、My soul finds rest in God alone.とあるように、信仰によって、ただ神の内にのみ「休息(安息)を見出す」という積極的な意味合いがあります。休息(安息)を見出すことは、神への信頼のあかしと言えます。どんな状況においても、あわてることなく、落ち着いて、神にすべてをゆだねて信頼し、神を静かに待ち望みます。なぜなら、私の救い(すべての必要、守り、助け、導きなど)は、すべて神から来ると信じているからです。

私たちの現実は黙っていることなど到底できない状況がいくらでも襲ってきます。預言者イザヤは動乱の時代に静けさを説いた預言者でしたが、彼はアッシリヤの脅威に対してエジプトに頼ろうとする者たちに次のように語りました。

「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』」(30:15)と。

預言者エレミヤもハビロンの捕囚となった神の民に呼びかけました。
「主はいつくしみ深い。・・主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。・・口をちりにつけよ。・・主は、人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌 3章25~29節)

「主がいくつしみ深い(良い方)」であることを知ること、沈黙すること、そして希望を持つこと、これらはみな密接な関係にあります。

沈黙と静まりこそ、御父のみこころに従う御子イエスの内なる自由が培われた場でした。私たちも、神に愛された者として生きるためには、活動的な働きから退く「静まりの時」が必要です。なぜなら、その静まりの時こそ神との信頼の絆が深められる時だからです。

換言するならば、静まりは神の臨在の意識を回復する営みと言えます。神が私に語りかけておられるという感覚が研ぎ澄まされ、敏感になりながらも、たましいは、神にゆだねる心で休息している。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」―その模範はイエス・キリストです。沈黙と静まりを通して、私たち自身が神に向けられるようになります。そして、開かれた神のことばの理解がより深められる経験をするのです。


2013.4.14.


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