****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

箴言の瞑想を始めるに当たって

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

0. 「箴言」の瞑想を始めるに当たって

  • 全904節からなる「箴言」(全31章)、毎日、1節ずつ味わうとすれば、何と2年半を費やしてしまいます。今回は箴言を瞑想するに当たりどのような視点で読むべきかと思案する中で、箴言を「家庭教育の根幹のテキストとして学ぶこと」を示されています。教育は、一般的に、「家庭教育」「学校教育」「社会教育」に分けることができます。これを主にある「教育」、あるいは「育成」と考えるとき、最も重要でしかも優先順位が高いのは「家庭教育」です。これがすべての根幹でありながら、今日最も崩れている領域なのです。「家庭教育」が主にあってなされるためには、「結婚」が主にあってなされなければなりません。この「結婚」のうちに隠されている「一体」の秘密こそ、神のご計画における奥義でもあるのです。「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」(詩篇11:3)とあるように、すべてはそこから始めなければなりませんが、事は容易ではありません。「親が先か、卵が先か」といった机上の問題としてしまうことなく、次世代に向けて可能な限りにおいて今置かれているところから緊急に始めなければならない教会の大事業なのです。
  • 私の所属する「日本神の教会連盟」では今年(2015年の夏)から、遅ればせながら「次世代育成プロジェクト」が始まりました。「父から子へ、子からその子へ」という標語の下に大事業を始めようとしているのですが、実はどこから始めてよいのか思案投げ首です。私にとって、箴言の学びはその鍵を与えてくれるような気がします(直感ですが)。

画像の説明

  • 「社会教育」「学校教育」「家庭教育」の優先順位はこの逆です。聖書に基づく「家庭教育」を再建させることが最も困難ですが、それに取り組むためには、その根底にある聖書的な鍵が必要です。その鍵を手に入れるためには、神のご計画のマスタープランに対する理解と「御国の福音」および「ブライダル・パラダイム」についての理解が不可欠だと、私は考えます。
  • 「箴言」の講解説教を記された鍋谷堯爾氏が(いのちのことば社「新聖書講解シリーズ」旧約13、1988年)、その「あとがき」に次のように記しています。

箴言のテーマである「知恵」とは、普通、われわれが考える「人間の知恵」とか、「神の知恵」とはかけ離れ、むしろ、われわれの持っている知恵についての既成概念を壊すものではないかということである。そして、「信仰とはこうだ」と考えているような既成概念をも壊し、「このようなところに神は目を留めておられない」と考えているようなところに、神の臨在性を感じさせるまでに導いて行くような聖書解釈法への手がかりのようなものが、おぼろげながら見えて来た時に、原稿の締め切りに追われる事態に立ち至ってしまった。(222頁)

  • 鍋谷氏が「おぼろげながら、見えて来た」と言っていることーそれこそ最も知りたいところですが、まさにそれを読者に考えさせるところが、「箴言」が意図するところなのかもしれません。
  • 「箴言」と訳されたタイトルは、ヘブル語の「ミシュレー」(מִשְׁלֵי)で、これはソロモンにかかる連語形の複数形です。元の形は「マーシャール」(מָשָׁל)で、「ことわざ、なぞ、たとえ」のみならず、「物笑いの種」という意味もあります。その動詞「マーシャル」(מָשַׁל)は「たとえを語る」という意味ですが、同時にそれは「支配する、治める」という意味もあるのです。つまり、「マーシャール」(מָשָׁל)を理解することは、地を「支配する」ことなのです。これは人間に与えられた本来の使命を回復することにつながります(創世記1:26)。
  • イェシュアのことを考えてみると、彼は神のご計画である「御国の福音」を「たとえ」で語られました。たとえば、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13~14)などはその一例です。一見分かるようなたとえ話ですが、その真意は「尋ね求める者」にしか明らかにされないという意味です。「なぜ、いのちに至る門を見いだす者はまれなのか」。「なぜ、広い門から入って行く者が多いのか」。そのことを考えなければならないのです。
  • イェシュアの傍にいる弟子たちはそのたとえ話の真意を知る位置にいたことになります。主にある者たちは主のみことばを聞いてあたかも分かったかのように思わずに、その真意を繰り返し主に尋ね求めなければなりません。箴言とはまさに神のご計画における最も大切な事柄を、師が弟子たちに、あるいは親(父や母)が子どもたちに「教え伝える」という教育法と言えるのです。
  • 神に選ばれた民ユダヤ人は、神の教えを親から子へ、師から弟子たちへ伝える教育法を成熟させて来た民とも言えます。その完璧な姿が神の御子イェシュアに見ることができるのです。その意味で、最も大切な神の「知恵」とは何か。「主を恐れる(畏れる)」とはどういうことか。それをどのようにして会得するのか、など。箴言はそのための最高峰のテキストと言えるのではないかと思います。しかしそれは、鍋谷氏が言うように、常に自らの「既成概念」を打ち壊す勇気が求められているように思います。


2015.10.5


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