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約束の地における神のトーヴ

3. 第二瞑想 約束の地における神のトーヴ

【聖書箇所】 申命記 8章7節~10節

はじめに

  • イエス・キリストは「良い木はみな良い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはできない。」と(マタイ7:17, 18)言われました。これは真理です。神ご自身についても言えるたとえです。神が良い方であるならば、神は良いものしか造ることも、また、与えることもできないということになります。神が善であられるならば、その神とかかわることによってもたらされることはすべて良いのです。この認識、この信仰こそが私たちのアイデンティティを強くしていくのです。
  • 今回は、神がイスラエルの民をエジプトから連れ出して、彼らをアブラハム、イサク、ヤコブに約束された約束の地カナンを与えようとされました。その約束の地がいかなる地であるかを通して、神がトーヴな方であることを心にしっかりと刻み込みたいと思います。

1. 主が賜る良い地―「乳と蜜の流れる地」

  • モーセは神が約束された地がどのような地であるかを探るために、12の部族からそれぞれひとりずつを選んでカナンに斥候として遣わしました。選ばれた12人の斥候はなんと40日間もかけてその地を探ったのです。エジプトから連れ出された200万人もの民たちの中でだれひとりとしてその地を見た者はいなかったのです。モーセ自身も然りでした。
  • 斥候を遣わした時期は、おそらく、8月か9月頃であっと思われます。なぜなら斥候はくだものを持ち帰ったからです。4月頃から半年はイスラエルではほとんど雨の降らない乾季ですがこの時期にくだものが実ります。斥候たちの中にはぶどうが一房ついた枝を切り取り、それをふたりが棒をかつぐようにして帰って来ました。ぶどうだけでなく、ざくろやいちじくの枝も切り取って持ち帰りました。そしてイスラエルの会衆にそれを見せたのです。彼らの報告はこうでした。民数記13:27、14:7, 8節(後者はカレブの報告)

①「そこはまことに乳と蜜が流れています。それがそこのくだものです。」(民数記 13:27)

②「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。あの地には、乳と蜜とが流れている。」(同、14:7, 8節)

  • 乳と蜜の流れる地」―なんとすばらしい表現でしょうか。これは比喩的な表現です。乳と蜜それ自体が流れているということではありません。これは、牧草の豊かな、しかも蜂が蜜を吸うことのできる多くの花や樹木の生えている自然の豊かな地という意味です。

    画像の説明

  • 日本の旧約学者である池田裕氏は「乳の蜜の流れる地」について次のように説明しています。

「荒野とカナンの違いは、水源や緑の量だけでなく、家畜の羊や山羊むたちの育ち具合にも出でくる。・・・荒野の羊や山羊は、沃地の羊や山羊に比べて、乳の出が悪い。・・カナンに来ると、一年を通して羊や山羊が食べる「緑」の量が違う。乳の出方もいい。家畜だけではない。イスラエル人の母親たちも、カナンに住んでから自分たちの乳の出でよくなったのに驚いたに違いない。赤子がいくら吸ってもまだあふれるように出る。乳の蜜の流れる地」という言葉が生まれた背景には、こうしたイスラエル人自身が体験した大きな驚きと感動があったのだと思う。つまり、「乳と蜜の流れる地」は、全てがからからの荒野の生活を体験した人々たちの中からこそ生まれたのだ。苛酷な荒野の生活をたっぷりと味わったきた人間だけが、それを少しも大げさとは思わないで使えた、カナンの美称なのだ。」

(「わが名はベン・オニ」1986年、エルサレム文庫出版43~45頁)

  • ところで「乳と蜜の流れる地」(ハ―・アーレツ ザーヴァト ハーラーヴ ウ・ドゥヴァーシュ)というこの詩的な表現はだれが考えたのでしょうか。とてもすばらしい表現ではないでしょうか。この表現は斥候に遣わされた誰かが使ったとしてもそれはその者の発案ではありません。実は、この「乳と蜜の流れる地」の発案者は神ご自身です
  • 旧約で20回ほど使われていますが、その最初はどこで使われているかといいますと(こういう時にはコンコルダンスを使えばいいわけです)、主がモーセをホレブ山で召した時に言われました。
    出エジプト記 3:8 「わたしが下って来たのは彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。」
  • これは神が良いお方であるゆえに、それにふさわしい土地が賦与されるということです。イスラエルの民に与えられた土地は「良い地」でした。新約の私たちに与えられるものは霊的な祝福ですが、いずれも「良いもの」です。神が約束された「良い地」である「乳と蜜の流れる地」について、もっとより詳しく見ていたいとおもいます。申命記にモーセはこの土地について次のように語っています。

【新改訳改訂第3版】申命記8章6~10節
6 あなたの神、【主】の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。
7 あなたの神、【主】が、あなたを良い地(「エレツ・トーヴァー」
אֶרֶץ טוֹבָה)に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、
8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。
9 そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。
10 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、あなたの神、【主】をほめたたえなければならない。

以上の聖書箇所からどんな印象を受けるでしょうか。いくつかの特徴を拾ってみたいと思います。

(1) 満ち足りる地

  • 「何一つ足りないものがない」、すべてが備えられている、「乏しきことあらじ」の世界、詩篇23篇1節に「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」とあるように、「アドナイ・ローイ、ロー・エフサール」(לֹא אֶחְסָר)の世界です。神の約束の地は、十分、かつ豊かな供給がある。満ち足りることのできる良い地なのです。しかも無尽蔵な地であり、結実豊かな地なのです。満ち足りることのできる地なのです。ちょっぴり満足するといのではなく、常に、絶えず、すべてにおいて満ち足りることのできる世界なのです。
  • エペソ人への手紙の3:16「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、 あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。 」というパウロの祈りがあります。黄色の部分の「に従い」(「カタ」κατα)ということばは「~の中から」という意味ではありません。つまり、「神の栄光の豊かさの中から」と言う意味ではなく、「神の栄光の豊かさに従って」という意味です。どういうことかいうと、この「従う」ということばの意味はそれにふさわしくという意味に近いのです。もし億万長者がいて、貧しい人がその億万長者の街で出会って、その貧しい者が願うままに千円やったとします。その場合、その億万長者は自分の財産「の中から」千円あげたわけですが、もし億万長者のその富の豊かさに従って、それにふさわしく」あげたとしたらどのくらいの額になるでしょうか。大変な額になると思います。
  • 天の父なる神も私たちが願うわずかな願いのままに、ご自身の栄光の富の中からわずかに与えるような方ではありません。パウロは「どうか父がその栄光の豊かさに従い」と言っています。つまり、栄光の豊かさに応じて、それにふさわしく豊かにという意味で祈っているのです。神の尺度に従って、その満ちたりる富に従って祝福を与えることのできる方なのです。
  • 使徒パウロという人は神の尺度に従った表現を好んで使った人です。「あふれるばかりの」「あふれるほどに」「溢れ出て」とか・・。他にも「勝ち得て余りある」「絶大な」「はるかにまさる」「測り知ることのできない」「ますます」「満ち溢れるといった表現です。これらのことばはすべてギリシャ語の「ヒェペル」(ὑπέρ)ということばが頭についた合成語なのです。
  • 使徒パウロはこう言っています。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって(ここも実はエペソ3:16の豊かさに「従い」というところで使われていた「カタ」καταが使われています)、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)と。

(2) 隠された無尽蔵の宝が眠っている地

  • 再度、申命記8章に戻って、神が与えてくださる良い地について見てみましょう。「その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。」とあるように、神の与える地は目に見えない宝の山だということです。無尽蔵の富が眠っているのです。ちなみに、申命記で「掘り出す」と訳されたヘブル語は「ハーツェーヴ」(חָצֵב)で、鉱物や井戸を「掘る」という意味で、6章11節、8章9節で使われています。
  • 現代のデジタルの世界にはなくてはならない半導体に必要なある物質が日本にはない。しかし中国にはあるということで、それを得るために日本の企業は高いお金を出して買っているそうです。中国もその物質を用いて政治的な駆け引きをしているようですが、最近になって、その物質が太平洋の海の底に無尽蔵の量があることが調査して分かったそうです。
  • 海の底にはまだ私たち人間の知らないものが多く存在していると言われています。地球の深海にはまだまだ未知なる世界があるようです。深海だけでなく、神の世界、キリストにある霊的な富も実は無尽蔵なのです。聖書には無尽蔵の宝がぎっしりと詰まっているのです。ですから、それを掘り出す者がいなければなりません。
  • 使徒パウロという人はそうした霊的な無尽蔵の富を掘り出した人です。彼の書いた手紙にはその霊的な富を掘り出した「驚き」のことばが満ち満ちています。パウロの表現の特徴として、彼が好んで用いたことばがあります。たとえば、みことば賛美(1テサロニケ5:16~18の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」にある「いつも」(副詞)、「絶えず」(副詞)、「すべて」(形容詞)―これらの三つのことばだけとってもすごい世界に私たちを引きずりこもうとしているのです。

①「いつも」(パントテ、παντοτε)喜んでいなさい。「いつも」です。常に、どんなときにも、always, all the time, 時々思い出したようにではなく、たまにではなく、いつも、常に、変わることなく、です。

②「絶えず」(アディアレイプトース、αδιαλειπτως)祈りなさい。「絶えず」です。途切れることなく、中断することなく、ずっと続いて、継続しているという意味です。

③「すべて」(パンティ、παντί)のことを感謝しなさい。「すべてのこと」です。あらゆること、なんでもかんでも、全部、あらん限り、ありとあらゆることを意味します。なぜなら、神は私たちに良いことしかなさらないからです。良いものしか与えることのできない方だからです。その視点ですべてのものごとを受け止めてみるのです。

感謝できないことがいっぱいあるように私たちには思えます。こうだったらいいのに、ああだったらよかったのにと考えますが、それはあくまでも私たちが自分の視点で考えているからです。しかし神の視点は私たちとは異なります。だれかが私に悪を計ったとしても、それを良いことのための計らいとしてしまう神様なのです。ヨセフの言ったセリフを思い出してください。兄弟から憎まれてエジプトに売られたヨセフが後に自分の兄弟と再会した時に言った言葉です。「あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」(創世記50:20)
使徒パウロもローマ8:28で似たようなことを言っています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる、私たちは知っています」と。

  • ですから、パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」ということができたのです。しかも、それを神が望んでいるからです。神が望んでいるということは、雀の学校のように、神が「鞭をふりふり、チーパッパ」でさせようとするのではなく、そうできるようにすでに私たちにその力を恩寵として与えておられるからです。決してできないことをさせようとしているのではありません。すでに、父なる神はキリストにあってそのような生き方ができるようにすべての恵みを与えてくださっているのです。できないことを要求しているのではなく、十分にできる力、源泉となるものを与えておられるのです。ただ、神はそれを私たちが信仰をもって掘り起こし、自分のものとすることを願い、望んでおられるのです。
  • 私たちには天にある霊的な富がキリストにあってすでに与えられているのですが、鉄や青銅のように石や山からそれを掘り出すということが必要です。どんなに堀り出したとしても無尽蔵なのですから無くなりません。まだまだ私たちの知らない真理が聖書の隠されているかもしれません。
  • さらに、神の豊かさを表わす無尽蔵の象徴は「泉」です。イエスはこのシンボルをよく使いました。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへのわき水が出ます。」(ヨハネ4:14)「泉」は自分たちの心を満たすだけでなく、それが自分からも溢れ、流れ出て、それを人にも分かち与えることのできるものです。ですからイエスは「決して渇くことがない」と言われたのです。
  • イスラエルの民はエジプトにいたときには、エジプトは山や谷がありませんから、水は川から汲んで自分たちのところに運ばなければなりませんでしたが、カナンの地は山あり、谷ありですから、水を運んで来なくとも流れて来る地なのです。しかも泉が至るところにあるとすれば無駄な労苦はいらないのです。

(3) 結実の豊かな地

  • 約束の地は、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地です。実り豊かな結実をもたらします。小麦、大麦の収穫は春です。ぶどう、いちじく、ざくろなどは秋です。つまり一年を通して実りがあるのです。
  • 詩篇1篇には、神とのかかわりが正しくあるならば、その人は流れのそばに植えられた木のように、時が来れば、何をしても栄えるとあります。流れのほとりに根を伸ばすので、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実を実らせるのです。なつめやしという木は、実を結ぶまでには40年ほどのかかると言われていますが、ひとたび、実を結ぶ木に成長すると、それから100年間は多くの実を結び続けると言われています。
  • 詩篇には神との正しいかかわりが正しくある者のことを「主の家に植えられた木」に例えている箇所が多くあります。キリストにある品性としての結実です。もちろん、人によってなんらかの働きの結実も見ることができるに違いありません。心の健康が与えられれば、寿命もながくなることでしょう。そればかりか、「年老いても(白髪になってもという意味)なお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」(詩篇92:14) とあります。原文では「白髪になっても、艶やかで、しかもみずみずしい」となっています。ここには二つの形容詞が使われています。一つは「ダーシェン」דָּשֵׁןで「生き生きした、みずみずしい、健康な」という意味を持つ形容詞、もうひとつは「ラーアナーン」רָעַנָןで「青々と茂っている、新鮮な」という意味の形容詞です。
    このような人こそ、神が与えた良い地を占領する(所有する、相続する、自分のもとのする)ことのできる人ではないでしょうか。神の約束の地を占領するために立てられたヨシュアは、カナンに侵攻し、そこを征服して占領しました。そのヨシュアはすでに老人になっていました。その彼に主はこう仰せられたのです。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」(ヨシュア記13:1)と。このヨシュアこそ先の二つの形容詞が似つかわしい人であると思います。
  • 「占領する」という動詞は「ヤーラシュ」יָרַשׁが使われています。この動詞は「所有する」「追い払う」「相続する」という意味があります。しかもここは完了形が使われています。やってみなければわからないというような意味ではなくて、必ず、占領できるという確かな事実を意味しているのです。いまだ得てはいないけれども、確実にそうなるときにはヘブル語では完了形を使うのです。

2. 良い地には私たちの力を越えた敵も存在する

  • このように神の賜る良い地は「乳の蜜の流れる地」ですが、同時にその地には私たち以上の力をもった敵がいることも事実なのです。そのような敵がいなければなにもいうことはありませんが、残念なことに強力な敵がいるのです。イスラエルの民は偵察のために遣われました。確かにその地は神が言われるように「乳と蜜の流れる地」である。けれども、その地に住む民は力強く、かつ背が高い者がいると報告しました。つまり、良い地ではあるが、そこへ行くことはできないという結論を出してしまったのです。
  • 神が私たちに賜る地はどこまでも良い地であり、神は良いものしか与えることのできない方です。しかし、その地にはそれを得ることを阻む敵がいることも事実です。カレブとヨシュアも巡ってきた地は良い地であることを確信しました。そして自分たちが神のみこころにかなうなら、神はその地に導き入れて、その地を私たちに与えてくださると信じたのです。
  • 神の約束と現実の狭間で私たちの信仰は萎えてしまうのです。自分の力の現実、弱さの現実、無能な現実が神の祝福の約束を実現させなくしているのです。神の約束を握って、信仰によって立ち上がる必要があります。カレブが民を沈めて言ったことばはこうでした。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずできるから。」(民数記13:30)
  • 私たちもカレブのように、またヨシュアのように、神の約束を信じて、前に置かれている神のトーヴを自分のものとして占領していきたいと思います。

2012.3.4


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