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終末の正義と公義によるメシア王国とその祝福

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23. 終末における正義と公義によるメシア王国の統治とその祝福

【聖書箇所】32章1~20節

ベレーシート

  • 一見、難しいように思える章ですが、神のマスタープランを知っている者であるなら難しくありません。この32章は大きく三つに分かれています。第一はメシア王国における統治、第二はユダの「のんきな女たち」に対するさばきの予告、そして第三は再びメシア王国の回復とその祝福です。

1. 「見よ」という語彙の異なる二つの原語とその違い

  • イザヤ書において、「終わりの日に」「その日」「見よ」「ついには」という語彙が登場するときには、大方、その内容が終末に起こることだと考えておくと理解しやすいです。ただ「その日」とあっても、近い将来に起こることもあるので少々注意を要しますが、全体のマスタープランの概要を知っていると理解できるはずです。また、王が支配する王国というのは、メシア王国(千年王国)のことであり、最終のステージとなる「新しい天と新しい地」のことではありません。
  • 1節にある「見よ」という間投詞の原語は「ヘーン」(הֵן)です。もう一つ「見よ」と訳されている間投詞の原語は「ヒンネー」(הִנֵּה)です。使用頻度からすると、後者の「ヒンネー」が圧倒的に多く1061回です。前者の「ヘーン」は125回、そのうちイザヤ書では27回使われています。同じ訳語ですが、どこがどう違うのかと言えば、「ヘーン」はその後に来る語彙が強調されています。例えば、イザヤ書32章1節でいうならば「正義によって」という語彙と、それの対句となっている「公義によって」という語彙です。一方「ヒンネー」はその後に記されているある情景などを強調しています。例えば、詩篇133篇1節にある「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」というのがそれです。それは神による恩寵的祝福の出来事を意味しています。
  • イザヤ書32章15節の「ついには」と訳された前置詞の「アド」(עַד)は終末を指し示しています。英語では everlasting, end, です。その語彙の前には否定句があるか(イザヤ42:4)、あるいは内容的に対象的な事柄が続く場合に使われるようです(同、32:15)。いずれにしても、最後の時を預言しています。

2. メシア王国における「正義」と「公義」の概念

【新改訳改訂第3版】イザヤ書32章1節
見よ。ひとりの王が正義によって治め、
首長たちは公義によってつかさどる。

  • 32章1節にある「ひとりの王」を当時のユダの王ヒゼキヤだとする解釈がありますが、それは違います。なぜなら、王と王を支える首長たち(高官たち、参謀)は必ずしも一枚岩ではなかったからです。参謀の中にエジプトに頼ろうとする者がおり、それが王の信仰を動揺させ、多くの民たちの心を動かしました。しかし、1節にある王と共同統治する首長(高官)たちは、一枚岩となって王国を治め、かつ、民たちを保護して安全を図ろうとしています。民たちの霊的な目と耳も開かれています。これはメシア王国(千年王国)における祝福を預言しています。

(1) 正義の概念

  • 1節の前半に、「ひとりの王が正義によって治め」とあります。ここにある「正義」(「ツェダーカー」צְדָקָה)は、神と人との関係概念であり、愛と信頼をその内容としています。神と人とが愛と信頼によって正しい関係を回復することは「救い」そのものであり、そこに「平安」(「シャーローム」שָׁלוֹם)が生まれます。「シャーローム」は神の恩寵の祝福の総称ともいうべき語彙です。聖書の言う「正義」とは、単に、道徳・倫理概念ではなく、神と人との愛と信頼に基づく麗しいかかわりを意味しているのです。使徒パウロは「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)と述べています。「義と平和とは、互いに口づけしています。」(詩篇85:10)
  • 「新しい天と新しい地」においては、この「正義」のみがある世界です。使徒ペテロはこう述べています。「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:13)と。

(2) 公義の概念

  • 1節の後半に、「首長たちは公義によってつかさどる」とあります。「公義」、あるいは「公正」と訳されたとしても、原語は同じく「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)です。これは神の統治概念であり、生存と防衛の保障、および主のトーラーの基準に従ってさばき(判断され)、そこに定められている神の民の福祉と平穏を保障するものです。そのためにメシアは「鉄の杖」をもっています。なぜなら、メシア王国(千年王国)は、すでに朽ちないからだを与えられている者とそうでない者が混然として存在している世界だからです。ですからサタンが幽閉されていたとしても、罪を犯す可能性は朽ちるからだをもった人々とその子孫にはあるのです。それゆえメシアは、「鉄の杖」をもって統治する必要があります。
  • しかし最終ステージ、すなわち新しい天と地においては、メシアはその権威を御父に返還されます。新しい地は罪が一切無くなり、正義のみが支配する世界、つまり永遠の愛と信頼をもって神を仰ぎ見る世界となるのです。

3. ユダの「のんきな女たち」に対する警告

  • 32章9~14節には、ユダの王宮にいる「のんきな女たち」に対して警告されています。「のんきな女たち」と「うぬぼれている娘たち」とは同義です。「のんきな」と訳されている形容詞は「シャアナノーット」(שַׁאֲנַנּוֹת)で「安んじている」「平穏無事な」「心の鈍い」という意味です。ちなみに、動詞は「シャーアン」(שָׁאַן)。
  • なぜ「のんき」なのかと言えば、「一年と少しの日がたつと」、彼女たちは「わななく」ようになるからです。「ぶどうの収穫」も「取り入れもできなくなる」大変な事態になるからです。その具体的な事態とは彼女たちの住んでいる宮殿は見捨てられ、荒地となることです。時期としては、ぶどうの収穫が間近な季節である8月頃です。
  • 事実、その頃にユダは神殿も宮殿も見捨てられて破壊されます。それはおそらく、バビロンのネブカデネザルによってなされるエルサレム陥落と捕囚の出来事を預言しています。「一年と少しの日がたつと」とあるのは、「一年」を百年にすると丁度、時系列が符合します。B.C.701年のアッシリアのセナケリブによるエルサレム包囲は失敗して、エルサレムは守られますが、それから丁度、百年と13~14年後にネブカデネザルによってエルサレムは破壊されます。それゆえ、平穏無事だと思い込んでのんきにしている女たち(娘たち)は、「立ち上がって、わたしの声を聞け、・・耳を傾けよ」と呼びかけられているのです。

4. 荒廃から回復への預言

  • 15節以降、「しかし、ついには」とあり、「終わりの日」には、「上から霊が注がれ」ることで神の民は悔い改め、土地の呪いは解かれて荒野が果樹園となります。神の民は平和な住まいの中に暮らし、安全と安らかな憩いの場に住むことになると預言されています。
  • 今日、復興しているイスラエルは多くの果物が生産されているようです。しかし今だ、帰還したユダヤ人たちに霊的な覚醒は与えられていません。それは「上から霊が注がれていない」からです。しかし審判の後には「恵みと哀願の霊」が必ず注がれます(ゼカリヤ13:10)。それは大患難時代の後にメシアが再臨される直前です。神の約束は真実です。必ずこの地上にすべて実現されます。そして17節にあるように、「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす」ようになるのです。

2014.9.12


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